藤原北家

藤原北家記事一覧

藤原良房の政治について

平城天皇もいれると、平城―嵯峨―淳和と、この時代に桓武天皇の子が三代続いて即位したことになります。それまでは順当でよかったのですが、淳和天皇のあとを誰にまかせるかで話し合いが行われました。結局、仁明天皇として嵯峨上皇の子が即位することになり、皇太子には淳和天皇の子である恒貞親王が皇太子になることに決...

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藤原良房による承和の変とは?

件の淳和との申し合わせで、淳和天皇のあとは嵯峨系の仁明が即位しました。その背後で藤原冬嗣の息子の良房が力を持っていました。この次には何もなければ淳和の子である恒貞親王が即位することになり、当然権力も藤原から伴・橘に移ってしまうのは目に見えています。良房からしてみれば、権力はできるだけ保っていきたいの...

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応天門の変の謎について

摂政とは、天皇が女性や健康上の問題があったとき、代わりに政務をおこなう役職のことです。推古女帝の摂政が聖徳太子だったのは有名な話ですね。このとき良房は太政大臣、つまり内閣総理大臣というポストについていましたが、左大臣の源信と大納言の伴善男が、彼が摂政になることについて反対をしていました。いくら良房が...

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藤原基経と関白政治の始まりについて

9世紀を簡単に説明すると、藤原冬嗣の時代が前期、藤原良房の時代が中期、藤原基経の時代が後期となります。冬嗣の子どもは良房ですが、良房の弟・長良の子どもが基経で、良房の養子になります。清和天皇と長良の娘である高子とのあいだに生まれた子どもが、次の陽成天皇というつながりになっています。一つ覚えておいてほ...

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阿衡の紛議とは?

光孝天皇は高齢でしたのですぐに亡くなり、その子である宇多天皇が即位しました。そのときに関白に正式に任命されたのが基経でした。しかし、その基経を関白にするときに、いざこざが起こりました。これが阿衡の紛議です。「基経を阿衡とする」と、宇多天皇が即位するときの詔に書いてあったのですが、これが基経の気に障っ...

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宇多天皇による天皇親政とは?

藤原基経は891年に死去します。基経には時平という子どもがいたのですが、まだ若かったため、宇多天皇は関白を時平には任せませんでした。宇多天皇は、基経には恩があると思っていました。彼がいなければ自分の父親は天皇にはなれなかったし、自分も天皇になれなかったかもしれない。しかし、それと同時に、阿衡の紛議の...

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昌泰の変により菅原道真が左遷される

宇多天皇の子どもには、醍醐天皇や斉世親王がいて、菅原道真の娘が斉世親王のところに嫁いでいました。醍醐天皇は宇多天皇から「寛平御遺誡」を託されました。また、重用された菅原道真にも、「醍醐天皇をよろしく頼む」と伝えてこの世を去りました。なので醍醐天皇の為を思い、菅原道真は政治的なアドバイスを彼にいろいろ...

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延喜・天暦の治について

延喜の治というのが醍醐天皇の代の治世を表した言葉ですが、政策で最も注目すべきところはやはり律令体制の再建でした。律令体制の基本は、大化の改新で大々的に表に出されていた公地公民、つまりすべての土地・人民を国家が所有することでしたが、それが崩れてしまい、10世紀ごろには荘園は豪族の私有地として存在してい...

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