鹿ケ谷の陰謀による平氏打倒計画

鹿ケ谷の陰謀による平氏打倒計画

このエントリーをはてなブックマークに追加  

平清盛は高倉天皇に自分の娘である徳子を嫁がせて、二人のあいだに生まれた子を安徳天皇として立てます。着実に天皇家とのつながりを強くしていった清盛ですが、このとき事件が発生します。1177年のことで、鹿ケ谷の陰謀とよばれています。

 

鹿ケ谷の陰謀による平氏打倒計画

 

これは清盛が太政大臣に就いてからきっかり10年後に起こったことで、平氏を倒そうという計画なのですが、実際は酒の席で、「どうしたら平氏を倒せるかね」と軽口を叩いただけのことで、それほど本気ではなかったようです。

 

しかし、清盛はこれを軽視することはせず、藤原成親、藤原師光(再光)、僧の俊寛たちを処罰してしまいます。彼らは後白河上皇の近臣で、重要な人物でした。最も大きな問題はその後の1179年に起こります。後白河天皇を鳥羽殿(離宮)に閉じ込めて、院政を機能させなくしてしまいます

 

清盛は自分に反発する勢力そのものを封じようと派手に動きます。鹿ケ谷の陰謀の席に後白河がいたとか、後白河のまわりに平氏に不満を抱いている人たちが集まっていて危険だとか、理由をつけては自分に有利になるように仕向けていきます。

 

 

このような流れの中で、翌年の1180年に三歳だった安徳天皇を即位させるのですが、院政も停止しているし、何よりもやり方が強引すぎるので、数々の反発を招いてしまいました。恐らく、もう少し慎重で策を練るタイプの藤原氏なら、こんなに焦って事をすすめることはなかったでしょう。姻戚関係は結んだとしても、法皇を押しのけてしまうなどの強引な行動は考えられません。





このエントリーをはてなブックマークに追加