源実朝の暗殺と承久の乱について

源実朝の暗殺と承久の乱について

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北条時政のあとに執権に就いたのは、その子の義時でした。比企能員の乱の10年後、1213年の和田合戦で、義時はその頃侍所のトップを担っていた和田義盛を倒します。その結果、義時は政所別当のほかに、侍所の別当にも就任することになります。

 

源実朝の暗殺と承久の乱について

 

そのあと、義時は頼家の子・公暁を洗脳しはじめます。結果、公暁はこう考えるようになります。「私の兄(一幡)も父(頼家)も祖父(比企能員)も、死んだのはみんな実朝のせいだ」言うまでもなく、全ての暗殺を企てたのは北条氏ですが、そんなことは決して口には出さず、実朝が将軍になりたいがためにおまえの家族を殺した、と洗脳したのです。

 

そう聞かされていた公暁は実朝を憎み、将軍である実朝の暗殺を、1219年に鶴岡八幡宮にて実行してしまいます。公暁はもちろん仇討ちのつもりだったのですが、将軍暗殺はとても重い罪です。公暁は討伐されてしまうことになります。

 

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承久の乱が起こる

 

そんなこんなで源氏はどんどん減っていき、正統な清和源氏は滅んでしまうことになります。そこで、そのあとの将軍として、藤原(九条)頼経を引き入れます。彼は頼朝の遠い親戚でした。

 

しかし、後鳥羽上皇がこれに反対をします。1192年に源頼朝が征夷大将軍に任命されていますが、任せたのは当時の後鳥羽天皇です。正統でない九条家が征夷大将軍になることは許されない。将軍は正統な源氏がなることのみ許されている」ということになってしまい、義時を討つように命令が出されて、承久の乱が1221年に勃発することになります。

 

 

しかし、戦いを仕掛けたはずの後鳥羽上皇側はこれに敗戦し、幕府側が圧勝します。後鳥羽上皇は隠岐に島流しにされてしまいます。華やかに栄えていた平氏の経済的な基礎は、五百箇所にのぼる荘園でした。しかし、承久の乱の後に朝廷側の味方をした貴族や武士から、幕府は三千箇所もの荘園を奪いました。

 

そこに新しい地頭(新補地頭)を置いて、御家人にも荘園を分け与え、もっともっと勢力を大きくしていきます。さらに幕府は、北条氏をトップとして、朝廷の監視と市中の警備、御家人の管理をするようになります。具体的には、朝廷の直接の支配下である京に、いままでの京都守護のかわりに六波羅探題を設置しました。





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