ロシアの南下政策と三国干渉について

ロシアの南下政策と三国干渉について

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日本は、1895年4月に締結された下関条約によって、遼東半島の権利を手に入れました。しかし、その頃南下政策を進めていたロシアは、遼東半島を領有しようと目をつけていたのです。

 

ロシアの南下政策と三国干渉について

 

そこで、ロシアはドイツとフランスに声をかけ、一緒に日本に対して圧力をかけてきました。これを三国干渉とよんでいます。日清戦争に先だって、なぜイギリスが日本を支援しようとしたかというと、ロシアの南進を止めたかったというのも一つの理由です。

 

例えばインドや東欧の国々などには、イギリスの植民地やイギリスが影響力を持っている土地が多く、それらはロシアの南にありました。なのでイギリスは何とかしてロシアの南下を止めたかったのです。

 

日本も、満州や朝鮮の地域へのロシアの南下に危機感を抱いていました。なぜロシアが南下政策をとっていたかというと、不凍港(一年中凍らない港)がほしかったからです。ロシアは不凍港を持っていなかったので、一年のうち三ヶ月から四ヶ月は経済活動や軍事活動を制限せざるを得なくなり、国力的にも遅れをとっていました。
まだその頃は、飛行機が発明されていなかったので、船が最良の輸送手段で、また、軍事手段でもあり、経済手段だったのです。その遅れを取り戻すためにも、ロシアは何としても不凍港を手に入れたいと思っていたため、南下政策をすすめていました。

 

なぜイギリスがロシアではなく、日清戦争やこのあと勃発する日露戦争で、日本を支援する側にまわっていたかというと、そのあたりの事情が大きかったようです。





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