第二回衆議院議員総選挙での選挙大干渉について

選挙大干渉について

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二回目の総選挙は1892年におこなわれましたが、いままで過半数を超えていたのは民党だったため、薩長藩閥政府は思いどおりにすることができません。そこで、松方内閣は選挙干渉をし、民党の過半数割れを狙います。

 

第二回衆議院議員総選挙での選挙大干渉について

 

その頃の選挙権を持っていたのは、多額納税者だけでした。選挙権が持てる条件は、二十五歳以上の男子であることと、現在に換算すると二、三千万円以上の年収があることでしたので、国民全体の約一パーセント程度でした。

 

 

さらに、記名投票でしたので、投票用紙に候補者の名前と自分の名前を書かなければいけなかったのです。警察官が投票所の前に立ち、投票しにきた人に向かって、サーベルを抜いて、こんなことを言ったという話もあります。

 

「今回の投票が記名投票だということは、わかっておろうな。民党に投票などすればあとでどんな目にあうか、察しなさい。では、投票に行きなさい」

 

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こんな風に言われてしまったら、自由に投票などできるはずがありません。この選挙大干渉のおかげで、その期間内に死者が二十五名、負傷者が三百八十八名も出て、まるで独裁国家の選挙を見ているような光景だったそうです。

 

 

しかし、ここまで選挙干渉をしたにもかかわらず、民党が百六十三議席を獲得して勝利しました。解散・総選挙をおこなっても、議会は結局、全く変わりません。その上、選挙干渉について追求された松方内閣は、退陣に追い込まれることになりました。

 

そのあと、伊藤博文が二度目の総理大臣に就任し、第二次伊藤内閣がはじまりました。まず最初に、伊藤は元勲内閣というものをつくり、明治政府をつくった主要メンバーのほぼ全員を閣僚にして、民党に圧力をかけようとしましたが、これも結局うまくいきませんでした。

 

そういった状況のなか、日清戦争が1894年に勃発しますが、日新、日露戦争に関しては、次の項目以降で説明します。





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