蒋介石の北伐と山東出兵について

蒋介石の北伐と山東出兵について

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もともと陸軍の出身であった田中義一首相は、このときは立憲政友会の総裁でした。若槻内閣で外務大臣に就任していたのは幣原喜重郎ですが、ワシントン体制を受け入れたことからもわかるように、協調外交路線をとって政務にのぞんでいました。しかし、枢密院はそれに不満を抱いていて、緊急勅令がたびたび廃案になったりもしました。

 

蒋介石の北伐と山東出兵について

 

そこで、外相も兼務していた田中義一は、中国に対して高圧的な政策を推し進めます。この頃の中国は、反日派である蒋介石をトップにした国民政府(南京)が支持されていて、全土統一を目指していましたが、いろいろな土地に軍閥といわれる人たちが割拠していて、まるで戦国時代のような状況でした。

 

日本が目をつけていた満州(中国北東部)は、親日派の軍閥・張作霖が権勢をふるっていました。その頃の旅順・大連の租借権は日本にあり、さらに長春より南側の南満州鉄道(満鉄)の権益も日本にありました。なので、張作霖としても、日本に敵対するよりは、手を組んでお互いの権益を広げていったほうが有意義だと考えていました。

 

一方、反日派の蒋介石は、親日派の張作霖が支配していた華北や満州に、国民革命軍を送り込みました。これを北伐といい、日本にとってはとても邪魔な動きでした。そこで田中首相は、軍人や外交官を集めて、東方会議を開いて対中国政策を検討しました。そして、中国にある日本の権益は武力を使ってでも守るという結論に至り、蒋介石の北伐を食い止めるために、1927年から山東出兵をおこないました。





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