第二次世界大戦のきっかけと軍部の圧力について

第二次世界大戦のきっかけと軍部の圧力について

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1939年に阿部信行内閣が発足しますが、この年の9月、ドイツがポーランドを侵攻したことをきっかけに、第二次世界大戦が勃発しました。陸軍大臣であった阿部首相ですが、世界大戦に関しては不介入の方針をとりました。米英と対立が激しくなることを心配して、ドイツには追随しませんでした。

 

第二次世界大戦のきっかけと軍部の圧力について

 

しかし、消極的な態度をとった内閣へ陸軍内部から反発が起こり、内閣はつぶされてしまいました。その次に発足したのが、1940年1月の米内光政内閣です。今回は元海軍が総理大臣になったわけですが、米内内閣も世界大戦は不介入の方針をとりました。中国との戦争が継続していて、これ以上戦況を拡大するのはとても無理だったのです。

 

同年3月に、日本は国民政府の幹部であった汪兆銘を中心に、南京新国民政府をつくりました。汪兆銘は東亜新秩序構想に賛成した一人です。政府とは名ばかりで、日本がいろいろな地域につくった傀儡政権の寄せ集めですが、新国民政府の目標は二つあって、一つが防共とアジアの独立、もう一つがヨーロッパ列国の支配からの脱却でした。

 

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非常に高い理想を掲げていますが、それを実行するためにおこなったことが、日本による侵略戦争だととらえられてしまいます。最初から悪いことをする目的でやったとは思えませんが、結果的にそうなってしまったことには変わりません。色々な考え方があるので、なかなか難しいですね。

 

どちらにしろ、ヨーロッパ戦線はドイツがものすごい勢いで進撃を続けていたので、日本でも軍部を中心として、日独伊三国同盟の締結を求める動きが強くなりました。もともと日本は資源をあまり持っていないので、日中戦争が長くなるにつれて、深刻な物資不足に悩まされていました。

 

米内内閣としては、どうしても三国同盟については消極的になってしまいました。軍部は戦争を優先させたいと思っていたので、結局、阿部内閣と同じように、米内内閣も圧力をかけられてつぶされてしまいました。





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