豊臣秀吉の時代

豊臣秀吉の時代記事一覧

豊臣秀吉が山崎の合戦で明智光秀を討つ

豊臣秀吉は、四つの時期に分けることができます。一つ目は、1582年から84年で、織田信長の後継者としての地位を確かなものにしていく時期です。当時は、織田信長の後継者がまさか羽柴秀吉だとは、誰も思っていませんでした。そこで、1582年におこなったのが、山崎の合戦です。羽柴秀吉は、備中(いまの岡山県)の...

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小牧・長久手の戦いについて

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破った豊臣秀吉こそが織田信長の後継者だと、誰もが認めるようになるのですが、一人だけそれに反論した人物がいました。それが、徳川家康です。「信長の後継者は、信長の次男である織田信雄こそふさわしい」と主張したのをきっかけにはじまったのが、1584年の小牧・長久手の戦いでした。おそら...

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豊臣秀吉による惣無事令とは?

1585年から1587年が二番目の時期で、秀吉が名目上ではなく、実質的にも天下を統一する時期です。1585年に、まず、長宗我部元親を屈服させて四国を平定します。また、1587年に島津義久を服属させ、九州を制圧します。これで、南蛮貿易などのおかげで発達していた九州を制圧したので、あとは関東と東北のみと...

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豊臣秀吉による全国統一の完成

三番目の時期に突入しましたが、ここで秀吉は、1587年にバテレン追放令、1588年に海賊取締令を発令します。キリスト教の宣教師のことをバテレンといいます。これはキリスト教の禁止ではなく、あくまでも宣教師の追放ですので、勘違いしないようにしてください。海賊取締令は、名前の通り海賊行為を取り締まるための...

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豊臣秀吉の刀狩令と人掃令

秀吉は刀狩令を1588年に出しています。名目上は、京都の方広寺の大仏を造るのに使われるということでしたが、実際は農民から武器を取り上げるのが目的でした。そもそもなぜ農民たちが武器を持つようになったかというと、自分たちの土地の安全が保障されていなかったからで、別に武器を使って土地を増やそうとしたわけで...

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