豊臣秀吉による全国統一の完成

豊臣秀吉による全国統一の完成

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三番目の時期に突入しましたが、ここで秀吉は、1587年にバテレン追放令、1588年に海賊取締令を発令します。キリスト教の宣教師のことをバテレンといいます。これはキリスト教の禁止ではなく、あくまでも宣教師の追放ですので、勘違いしないようにしてください。

 

豊臣秀吉による全国統一の完成

 

海賊取締令は、名前の通り海賊行為を取り締まるためのものですが、秀吉の本当の狙いは、自分が海賊をすべて取り締まるということでした。つまり、「貿易をやりたい者は、秀吉の許しを得て、手数料を払いなさい」ということです。そこで、秀吉は渡航許可書である朱印状を発行し、これを持っていない人は貿易ができないようにしてしまいました。これが、朱印船貿易のはじまります。

 

1588年、秀吉はみずからが京都に建設した聚楽第に、後陽成天皇を招きます。その場には、天皇だけでなく、全国の大名のほぼ全員を招待しました。まだ奥州や関東は制圧していなかったので、伊達や北条は呼ばれませんでしたが、従属した大名たちはみな集まりました。

 

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そして、天皇が見ている目の前で、秀吉への忠誠を誓わせます。戦国大名は、天皇を実際に見たことはありません。その人の目の前で、彼らを一人ずつ引き出して、個別に忠誠を誓わせたのです。

 

1588年に秀吉は、天正大判という通貨を発行します。これは、人々に自分が支配者であるということを知らしめるための手段でした。そして最後に、1590年に小田原を攻めて北条氏を討伐し、同じ年に奥州を平定し、伊達氏を従わせて、名実ともに全国統一を完成させました。

 

 

こうしてやっと秀吉は、織田信長がやり切れなかった全国統一をやってのけました。信長は、天下を武力で統一していくという考え方で、印判に記した文字も「天下布武」というものでした。

 

信長が天下統一のためにやったのは、実質的なところばかりだったので、そこばかりに目を向けすぎて、権威の後ろ盾のことまで気が回らなかったことが、身内から敵を出してしまった一つの原因になったのかもしれません。そういったところを、秀吉はよく見て行動していたのでしょう。





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