室町幕府の滅亡について

室町幕府の滅亡について

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京都での対立の時期が第二期です。そういった経緯で、織田信長は足利義昭を将軍に立てますが、義昭は完全に信長の言いなりになる人ではありませんでした。

 

室町幕府の滅亡について

 

「あくまでも偉いのは将軍である自分であって、信長ではない。もちろん世話になった恩はあるけど、もともと自分が将軍になるべきところを助けてもらっただけにすぎない。だから、私は信長の言うことを全部聞く必要はない」というわけで、信長と足利義昭はだんだん対立し始めます。

 

もちろん義昭一人で戦うのは無理なので、近江の浅井長政越前の朝倉義景、さらに比叡山延暦寺を味方にして、信長と対決しようとします。

 

浅井も朝倉も、単独では信長と戦うことは難しいと考えていたので、彼らにとってもこれは都合のいい話でした。浅井と朝倉が手を組み、その頃、南都・北嶺といわれていた僧兵を持つ宗教勢力のうち、北嶺にあたる延暦寺が味方していれば、織田信長とあたるには十分だと考えたのでしょう。

 

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しかし、1570年、姉川の戦いで信長は浅井と朝倉を倒してしまいます(最終的に滅びたのは1573年)。それだけでなく、1571年に延暦寺に火を放ちます。前に平氏が滅んだ時のことを思い出してみてください。直接的な原因は、南都(興福寺、東大寺)を焼き討ちにしたことでした。なので、義昭にしてみれば、信長が宗教勢力に対抗したとしても、まさか焼き討ちにするなどとは思わなかったでしょう。

 

これで残ったのは足利義昭だけになりました。彼は権力こそあるものの、実力は伴っていなかったので、信長は正親町天皇と結んで、将軍職をなくしてしまい、京都から義昭を追い払ってしまいました。これが室町幕府の最後となりました

 

 

いわゆる政治の基盤が京都で、経済的な基盤は堺(いまの大阪府)でした。1569年、信長は堺を制圧することに成功し、支配しました。ここまでを第二期とします。





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