蘇我氏と仏教について

蘇我氏は、なぜ仏教を信仰したのか?

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さて、ここから飛鳥時代の第二期に入りますが、この時代の天皇は推古・舒明・皇極の3名です。この時の豪族ですが、推古天皇を馬子、舒明天皇を蝦夷、皇極天皇を入鹿がそれぞれ担いでいて、いずれも蘇我氏でした。できるだけ多数の人の意見に耳をかたむけ、聞き入れたという聖人のような政治をしたとして有名な厩戸王、のちの聖徳太子(推古天皇の甥)ですが、実際はどうだったのでしょうか。

 

蘇我氏は、なぜ仏教を信仰したのか?

 

聖徳太子は法隆寺や四天王寺を建設したことや、「三経義疏」という仏典について解説した書物の著者としても知られています。このことから聖徳太子は仏教を厚く信仰していたことがわかります。そして、蘇我氏にとっては彼が仏教の信奉者というところがとても重要でした。なぜ蘇我氏は仏教を信仰していたのでしょうか。それには理由がありました。

 

蘇我氏の周りには、朝鮮半島から日本に渡ってきた人が多く、武具の製作や農業などの先進技術や文化などをもって朝廷に勤めていました。その渡来人たちは故郷に住んでいたころから仏教を心のよりどころとしていました。蘇我氏はその仏教を自ら熱心に信仰することによって、朝鮮半島とのつながりをさらに強くしていこうという思惑があったのです。

 

蘇我馬子が建設した飛鳥寺ですが、こちらは法隆寺と同じくらい飛鳥時代を代表する建物ですね。ちなみに法隆寺金堂の釈迦三尊像を製作した鞍作鳥(止利仏師)が本尊である釈迦如来像をつくりました。それとは別に、物部氏の部下には神道のまつりごとを専門とした職能集団がいました。中臣や忌部などがそうです。この時代は、仏教と神道の豪族が勢力争いをしていたということを覚えておいてください。





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