徳川御三家と御三卿について

徳川御三家と御三卿について

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七歳でこの世を去ってしまった家継には当然跡継ぎがいませんでした。そして、その時の保険として用意していた御三家のうち、紀州家から将軍を出すことにしましたが、その人が八代将軍・徳川吉宗でした。

 

徳川御三家と御三卿について

 

ちなみに、徳川家一族である尾張家、紀伊(紀州)家、水戸家の三家のことを御三家といいます。しかし吉宗は、御三家だけだともしかしたら跡継ぎがいなくなってしまうかも、ということで、そのほかに御三卿というものをつくります。それらは田安家、一橋家、清水家の三家でした。

 

それぞれの名の由来ですが、江戸城の門の名で、田安門、一橋門、清水門の門内に邸宅を与えられたことからです。

 

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享保の改革について

 

吉宗が将軍になったときもまだ、幕府の経済事情は悪いままでした。そこで吉宗は、倹約令を出すほかに、ありとあらゆるところからお金や年貢を集めようと作戦を練りました。最初におこなったのが上げ米といわれるもので、大名から石高一万石について百石、要するに石高の百分の一を献上させました。

 

それだけだと今度は大名のほうが苦しくなるということで、参勤交代の制度を緩めることで、つり合いがとれるようにしました。そもそもすごくお金がかかっていた参勤交代でしたが、それは大名に力をつけさせないようにするために行われていたので、かかったお金は別に幕府側に入ってくるわけではありません。商人、つまり街道沿いの商売人や、江戸の大名屋敷の関係の人が儲かるだけです。

 

 

商人ばかりが得をして、武士はどんどん貧乏になっていくという状況に陥っていました。どのように参勤交代を緩和したかというと、いままでは江戸に一年、国元に一年の繰り返しでおこなわれていましたが、国元の期間を一年半に増やし、江戸の期間を半年に減らしました。

 

江戸屋敷のまわりに家来たちを置いておくと、そのぶんたくさんお金がかかりますが、地元でおとなしくしていたら、お金が少なくて済むのです。 そうして、浮いたお金を幕府に献上させました。





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