天保の改革の失敗と水野忠邦の失脚について

天保の改革の失敗と水野忠邦の失脚について

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水野はいろいろなことに取り組んでいて、例えば、物価引き下げ令で、物価をむりやり下げたりしていますし、江戸の浮浪者や、ホームレスを帰農させるために、人返しの法を発案したりもしました。松平定信の旧里帰農令との違いは、人返しの法は強制的に送り返されるところにありました。

 

天保の改革の失敗と水野忠邦の失脚について

 

ホームレスからすると、帰るためのお金をもらえるわけでもなく、帰らなかったら罰を受けてしまい、しかも、帰ったら帰ったで、地元で制裁を受けるかもしれないという状況なのに、そんなことは関係なく追い立てられたのです。

 

また、三方領地替という無茶なこともおこなっていて、これはつまり、領土の入れ替えです。川越藩(いまの埼玉県)と庄内藩(山形県)と長岡藩(新潟県)の三藩が対象となったのですが、川越藩の大名が庄内藩にうつり、庄内藩の大名が長岡藩にうつり、長岡藩の大名が川越藩にうつるという、領土の入れ替えが断行されたのです。

 

なぜ、そんなことをしたかというと、その頃の川越藩は、江戸に外国船が入ってこないか見張る役目である相模(神奈川県)の海岸防備の役目をしていました。それには、とてもお金がかりましたし、川越はそこまで豊かな土地でもなかったので、荷が重すぎるだろうと、お米がたくさん収穫できる庄内に移したのです。庄内は、庄内米でも有名ですね。

 

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しかし、地元民がこれに対して猛反対し、実現するに至りませんでした。つまり、幕府がいくら無茶なことを言っても、納得しない大名は言うことをきかなくなったという一例でもあります。

 

そして、幕府は1843年に上知令というものを出しています。これは幕府にとって最終手段で、江戸と大阪の周りの五十万石の土地を幕府の直轄地にしてしまおうという案でした。その頃、全国を監視・管理するのに都合が良いということで、幕府の直轄地は全国にバラバラにありました。

 

 

しかし、全国のいろいろなところにある土地から年貢を取り立てるのには、たくさんの経費がかかっていました。なので一括化して節約しようとしたのですが、またしても諸大名や旗本たちの反対をうけて計画倒れしてしまい、実行できないまま終わってしまいました。

 

理想を高くもち、突っ走っていた水野忠邦ですが、周りの事情を考えずに結果を急ぎすぎたあまり、無理強いばかりの政策になってしまいました。なので、当然周囲から反発を招き、1843年に彼自身も失脚してしまいました。

 

そして、この10年後、日本はペリーの来航を迎えることとなります。





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