水野忠邦の天保の改革について

水野忠邦の天保の改革について

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大御所時代が終わってからは、十二代将軍・徳川家慶のもとで老中に就任していた水野忠邦による天保の改革の時代です。水野の印象としては、大御所時代の暴走を食い止めるためならなんでもやった、という感じでした。大御所の家斉が死亡したのち、すぐに水野は改革にとりかかります。

 

水野忠邦の天保の改革について

 

まずは、物価問題を何とかしなければいけないということで、1841年に株仲間解散令を出します。物価が上がった原因が、株仲間が値段を吊り上げたところにあったと判断したのです。自由な商売ができるようにと考えて、一部の特権商人のみが得をしている現状を打破しようとしましたが、これは結局うまくいきませんでした。

 

たとえば、江戸に地方から物資が入ってくる場合を考えてみましょう。地方の商人たちは、基本的に江戸の特権商人に物を売るので、買い叩かれることは叩かれるのですが、地方の人にとっては、江戸の特権商人は、安定して買い続けてくれるという意味で、お得意さんでもありました。

 

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しかし、ここで株仲間が解散してしまうと、地方の人にとってのお得意さんがなくなってしまうので、そのあたりが崩れてきます。つまり、地方の商人が江戸に売りにきていたのはうまみがあったからで、自由競争になってしまうと、それがなくなるので、江戸に商品がはいってこなくなります。結局、物価がまた上がってしまうという事態におちいってしまうわけです。

 

株仲間を解散しても、別のところで結局ほころびが出てくるので、うまくいきません。流通の構造というのは一度出来上がってしまうと、なかなかつぶすのは難しいのです。なので、株仲間は結局10年後に復活することになりました。





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