徳川家光による鎖国政策の背景

徳川家光による鎖国政策の背景

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三代将軍である徳川家光は、「自分は生まれながらの将軍である」と豪語しています。安土・桃山時代において、家康と秀忠は、いま家来になっている大名たちには戦争のときに助けられたり、いろいろお世話になった部分があったので、全面的に自身を押し出せないところがあったようです。

 

徳川家光による鎖国政策の背景

 

しかし、家光は1604年生まれで、関ヶ原の戦いまでの戦乱の時代は体験していません。なので当たり前といえば当たり前かもしれません。自分は生まれながらの将軍なので、誰にも遠慮することなく政策を押し出していくぞ、というスタンスで政治に臨みました。

 

家光がおこなった政策のなかで最も世に知られているのが、鎖国でしょう。鎖国政策を推し進めた理由はおもに二つあります。一つ目が、キリスト教の布教という名目で、日本に入ってこられて、スペインやポルトガルから侵略を受けるかもしれない、という危機感から。二つ目が、貿易の利益を独占するために、幕府が貿易を取り締まるためです。

 

この頃の海外貿易は非常に儲かっていたようで、幕府はそれを独り占めしたいと思っていました。これが一番の理由だったのかもしれません。実際に、キリシタン大名が朱印船貿易(幕府から渡航許可の朱印状を受けた公認の貿易)をすることによって、とても儲けていました。

 

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その証拠となる事例があります。1595年、スペイン船が土佐(いまの高知県)に流れ着いたのですが、この処置をめぐってサン・フェリペ号事件というものが起こりました。これをきっかけに、スペインとの国交も貿易も禁止していたのですが、後々家康はスペインとの貿易を再開しました。

 

1609年、江戸幕府が成立したあと、上総(千葉県)に漂着したスペイン人(当時のメキシコ(ノビスバン)はスペイン領でした)のドン・ロドリゴという人に説得されたのです。おそらく、「大御所、貿易は儲かりますよ。私たちと交易しましょうよ」とでもうまいこと言われたのでしょう。しかし、そもそもこのスペイン人たちが偶然流れ着いたかどうかもあやしいものです。最初からそれが目的で日本にきた可能性もあります。

 

 

なので、家康自身は鎖国や外国との貿易をやめるのに賛成ではなかったはずです。単純に、幕府が貿易の実権を握りたいというだけのことだったのでしょう。薩摩(鹿児島県)の島津家久が1609年に琉球を支配し、通商交易権も手に入れることに成功しました。

 

幕府としては、まだ鎖国がおこなわれる前だったので、先手を打たれてしまったわけです。ほかには、対馬の宗氏が朝鮮との貿易を独占していて、松前氏が北海道との交易を我が物にしていました。

 

 

しかし、幕府はこのような辺境の地での貿易については、特に何もしませんでした。そのかわり、いくらか上納させるということで利益を得ていました。とにかく、幕府がすべての経済基盤を自分たちのものにする、というのが家康のやり方で、それをそのまま家光も受け継いでいます。

 

つまり、幕府に反逆する者があらわれないようにするための政策を徹底しておこなっていて、お金をつくる貨幣鋳造権も、金山や銀山などの国の主要鉱山をすべて幕府が管理していたことも、すべてがそれにつながります。





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