天草四郎の反乱である島原の乱

天草四郎の反乱である島原の乱

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キリスト教の布教は、スペインやポルトガルなどのヨーロッパ人が日本にやってきた大きな目的のひとつです。なにも、貿易のためだけではありません。当初、幕府はヨーロッパとの貿易を積極的に推し進めていたため、宣教師が入国したり、布教活動をおこなうことも致し方ないと思っていました。

 

天草四郎の反乱である島原の乱

 

その結果、キリスト教徒が急に増えてしまい、人間はみな平等とするキリスト教の教義が、当時の日本の風潮に反していて、支配にも都合が悪いことから、幕府はなんとかしなければと思い始めます。

 

そこで、幕府の直轄地である幕領に対して、1612年に禁教令を出しました。その次の年にはそれを全国に広げました。しかし、それでも入り込んでこられたので、1616年に、平戸・長崎にのみヨーロッパ船の寄航を許可する、という措置をとりました。

 

これをきっかけに、イギリスは日本から撤退し、幕府は1624年に、スペイン船の来航を完全に禁止しました。この方針はもっと厳しいものになり、日本人の海外渡航と、在外日本人の帰国を全面的に禁じました。1635年のことでした。

 

 

1637年、キリスト教徒による大規模な農民一揆が勃発しました(島原の乱)。天草四郎により率いられ、九州・島原が舞台となったこの一揆の勢力はすごいもので、鎮圧するまでに2年もかかりました。

 

この反乱がきっかけとなって、平戸から長崎の出島にオランダ商館を移設したり、ポルトガル船の来航を禁じたりするなどして、ヨーロッパ人の締め出しを強化しました。こうして、長崎以外で外国人と接触しないように、鎖国政策ができあがっていきました。





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