宇多天皇による天皇親政とは?

宇多天皇による天皇親政とは?

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藤原基経は891年に死去します。基経には時平という子どもがいたのですが、まだ若かったため、宇多天皇は関白を時平には任せませんでした。宇多天皇は、基経には恩があると思っていました。彼がいなければ自分の父親は天皇にはなれなかったし、自分も天皇になれなかったかもしれない。しかし、それと同時に、阿衡の紛議のようなこともありましたし、基経のやり方自体には不満がありました。

 

宇多天皇による天皇親政とは?

 

宇多天皇はあまり誰かに任せきりにするのは好きではなく、その上、政治的能力も高い人でしたので、摂政・関白に誰も置かず政治を行っていました。当然、藤原基経の系統の人からこのことについて不満が出はじめます。実際、宇多天皇のブレーンや側近たちが危ない目に遭ったり、いきなり死んでしまったり、天皇の周辺で事件が相次いで起こりました。

 

そこで、滝口の武士というものを、自分たちの身を守るために置くことになります。彼らは宮中の警備を担っていました。文徳、清和、陽成天皇はみな藤原氏が外戚(母方の親戚)です。その頃の養育は母方の家でおこなわれていて、その家の母方の親戚が子どもに与える影響は大きいものでした。

 

外祖父、もしくは母方の伯父などが摂政となって政務をとるには、生まれた皇子を天皇にすることが必要でした。逆に考えれば、家が別だと命令をすることができないということです。基経の詰めの甘かったところに、宇多天皇の母親は藤原氏でなかったことがあげられます。つまり、藤原氏は外戚ではなかったのです。

 

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外戚関係をつくるには、とても長い時間がかかります。基経は手間と時間を惜しんだため、すでに高齢だった光孝天皇を立てたのですが、そもそも傍流の人だったので、藤原氏との縁戚関係もなく、高齢だったために子どもも成長していました。

 

なので宇多天皇は、基経がいなくなったことを機会に、摂政・関白にしばられることなく、自由に政務にあたることができたわけです。これが天皇親政というものです。さらに宇多天皇は、自分が生きている間に息子に位を譲り、醍醐天皇として即位させました。亡くなった後では何が起こるかわからないからです。宇多天皇は、醍醐天皇に位を譲ったとき、天皇としての心得を著した「寛平御遺誡」を与えました。

 

 

菅原道真の登用

 

宇多天皇が蔵人頭として登用したのが、菅原道真という学者です。道真は遣唐使の廃止を提案しました。すでに中国は衰退してきていて、危険なのは分かっていてなお行くほどの意味はなかったのです。実際、この直後に唐は滅びてしまいます。

 

菅原道真は、一度遣唐使として海を渡るよう命じられたことがあるのですが、行かされる寸前で中止しています。藤原氏が遣唐使を任命する権利をもっていたので、藤原氏は道真を排除するように仕向けるために、道真に遣唐使を任じていました。それによって宇多天皇と道真とを引き離そうとしたのですが、うまくいかなかったということです。





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