鎌倉幕府を開いた人である源頼朝の計画

なぜ源頼朝は、征夷大将軍の地位を求めたのか?

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奥州藤原氏が1189年に滅び、源頼朝は翌年1190年に右近衛大将になります。しかし、頼朝が欲しいのは右近衛大将の地位ではなく、征夷大将軍の位でした。右近衛大将は何事においても朝廷を無視して動くわけにはいきません。朝廷の近くを護衛する役職ですから、当たり前といえば当たり前です。

 

なぜ源頼朝は、征夷大将軍の地位を求めたのか?

 

対して征夷大将軍は、平安時代に坂上田村麻呂に与えられた称号のことですが、ある程度自分の裁量で動くことができます。なぜかというと、現在のように電話もメールもない時代なので、関東でもし緊急の用事ができた場合、いちいち朝廷におうかがいを立てている暇がないのです。朝廷が直接命令できないということは、征夷大将軍にある程度任せるしかないということです。

 

つまり、右近衛大将と征夷大将軍は天と地ほどの差があるのです。なぜ頼朝には征夷大将軍の位が与えられなかったのでしょうか?

 

頼朝はすでに東海道、東山道の沙汰権を与えられていたので、それをもっと有効活用するためには上の位が欲しかったですし、また「自分は朝廷から関東での武士のまとめ役を任されている」という存在でいたい、関東においてすべて自分の裁量で行いたいという彼の野望を抱いていました。

 

それを後白河上皇に見破られていて、上皇が生きている間は征夷大将軍にしてもらえなかったのです。1192年に後白河上皇が死去してはじめて、頼朝は征夷大将軍になることができました。

 

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共存する幕府と朝廷

 

のちの室町時代のことですが、京都にいるのに征夷大将軍をやっている、というのは本当はおかしなことです。本来、征夷大将軍とは蝦夷討伐のリーダーなので、関東にいるのが条件なのです。

 

頼朝としては、関東に滞在したまま朝廷の権力をバックに、関東を軸に全国の御家人を支配する力を持ちたかったわけで、朝廷のなかで貴族になって権力を振るいたかったわけではなく、また、朝廷を脅かして権力を奪うつもりもなかったのです。

 

一方、朝廷側としても、かたちの上では鎌倉幕府成立後も院政がおこなわれていましたし、収入もきちんとはいってきていて、特に幕府に地位を脅かされることもなかったので、対立する意味はなかったのです。





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