明治十四年の政変とは?

明治十四年の政変とは?

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1881年に、この騒動を後始末するために、事実上の罷免ということにはなりますが、大隈重信は下野します。大隈とそのブレーンが政界からごっそりいなくなったこの出来事を、明治十四年の政変とよびます。

 

明治十四年の政変とは?

 

本当は黒田清隆こそが罷免されるべきなのですが、実際は黒田はこのあと出世しています。その理由は簡単で、任命権は政府が持っているからで、単純に政府にとって都合の悪いことをした大隈重信が罷免された、というだけのことです。

 

政府にとって、大隈の行動は、盛り上がって欲しくない民権運動を盛り上げる手助けになってしまい、出したくなかった国会開設の勅諭を出さなければいけなくなってしまったので、非常に都合が悪かったのです。

 

国に大損させたという意味では、黒田も同じでしたが、それはほかの人にもいえることでした。むしろ「黒田だけバレてかわいそうだ」という同情をかい、のちに黒田は内閣総理大臣を務めるまでになりました。

 

明治維新で活躍した面々についてですが、1877年の西南戦争で西郷隆盛が死亡し、同じ年に木戸孝允も病気で死にました。さらに、大久保利通は、1878年の紀尾井坂の変で暗殺されました。

 

民権運動にいってしまった面子のなかには、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らもいました。これで政府に残ったのは伊藤博文と山県有朋のみになってしまい、軍部の実権を握っていたのは山県でしたが、実際は政府内にはめぼしい人材がいなくなっていました。





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