三大事件建白運動について

三大事件建白運動について

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当時は、井上馨が外務大臣を務めていて、欧化政策を推し進めていました。欧化政策というと、鹿鳴館を建てて、夜になると舞踏会が開催されているようなイメージがあるかもしれませんが、そうではありません。欧米諸国とは江戸末期に不平等条約を結ぶはめになりましたが、それを改正するためです。

 

三大事件建白運動について

 

条約を改正するなかで外国人がもっともしぶったのは、領事裁判権に関してでした。たとえば、世界のどこか未開の場所で捕まってしまって、村人が松明を持っているなかで裁かれるようなことにもしなったら、何をされるかわからないので、とても怖いですよね。その頃の日本もそういった未開の地と思われていたようです。

 

実際に、当時の日本の裁判はろくなものじゃなく、例えば十両(いまのお金でいう四、五十万円)盗んだら、打ち首獄門の刑でした。お白州に引き立てられ、大岡さんなどが登場して、しっかりとした取調べもされないうちに、そんな判決が下されていました。

 

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その頃の日本の裁判制度は、「法律で定めていないことは裁くことはできない」という罪刑法定主義ではなく、大岡さんがどう思うかで、極悪人であっても無罪放免になるし、打ち首獄門にもなるし、はっきりした規準がなかったのです。それを恐れた欧米人が領事裁判権を求めていたわけで、けっして不当な要求をしているわけではありません。

 

そこで、井上馨はこう言い出します。日本人に裁かれるのが怖いなら、法律は当然つくるけど、裁判所に外国人の裁判官を置いて、外国人の被告は外国人の裁判官が担当すればいいではないか。と。

 

 

それに対して反乱が起こります。1887年の三大事件建白運動がそれで、具体的には、井上外相の外交の失策の回復と、地租の軽減、言論・集会の自由を認めることの三つを三大事件として、政府に民権派が訴えかけました。

 

これに対して、政府はさらに民権派を弾圧します。憲法制定まで民権派は東京を出て行きなさい、という保安条例で民権派を追い出そうとしました。そのうえで、大日本帝国憲法発布を1889年に、第一回総選挙を1890年におこないました。そして、第一回帝国議会の開催もおこなわれました。





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