観応の擾乱での二頭政治の亀裂

観応の擾乱での二頭政治の亀裂

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足利尊氏が室町幕府の一番はじめの将軍です。最初は、尊氏は弟の足利直義と一緒に政務をとっていました。つまり、二頭政治というものです。しかし、二人が仲良くやっていたのははじめだけで、そのうち対立が生まれてきます。それが表面化したのが1350年で、観応の擾乱とよばれています。

 

観応の擾乱での二頭政治の亀裂

 

最終的なきっかけとなったのは、尊氏の側近である執事の高師直が直義に殺されたことです。よく歌舞伎や講談物に登場する高師直ですが、彼は尊氏の補佐をつとめていました。直義はだんだん尊氏に重用されつつある高師直のことを良く思わず、殺してしまうのです。

 

高師直を殺したことに腹を立てた尊氏は、弟の直義を毒殺してしまい、一応両成敗のような結果にはなったのですが、争いはそれだけでは終わらず、それから3年間も、幕府の中では争いが絶えず起きていました。

 

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守護大名の成立について

 

観応の擾乱が起こっている時に、半済令というものが発令されます。これは、国内の年貢の半分を武士たちに分け与えるというものでしたが、本当は将軍が家来たちの奉公に対してお返しをするために、直接渡さなければいけないものなのに、抗争が起きていたというのも理由で、その権限を守護に与えてしまいました。

 

つまり、守護が国内の年貢の半分を徴収できる、ともとれるのです。将軍は、国内のすべての武士をくまなく監視しているわけではないので、誰にどれくらい分け与えればいいかなどわかるはずもありません。その点、守護は武士たちのことをよく知っていたので、守護に仕事を任せたのです。

 

はじめのうちは、国内の年貢の半分ということで、戦うために必要な軍需米の分配のみをおこなっていたのですが、そのうち守護は土地の分配にまで手を出すようになります。そうなると、自然と武士たちは守護の前で頑張るようになります。将軍の前でいくら成果をあげても意味がないですし、自分の仕事を見ている人の前で努力するのは当たり前です。

 

 

その結果、武士たちはだんだん守護の家来のようになっていき、守護がそのうちその地域を支配するようなかたちとなり、守護の大名化、つまり、守護大名の成立へとつながっていくわけです。

 

以前の鎌倉幕府では、いくら面倒でも御恩と奉公の作業は将軍がおこなっていましたので、お互いうまくいっていたのですが、室町幕府ではその作業をすべて守護に任せてしまいました。そうなっても、しっかりと守護を支配するような体制があればよかったのですが、それがなかったので、結局は形だけの幕府になってしまったということです。





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