足利義教の恐怖政治について

足利義教の恐怖政治について

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1428年に、四代将軍である義持が亡くなりますが、六代将軍に就いたのが足利義教でした。彼は三代・義満の子ですが、出家して延暦寺天台座主という地位に就いていました。が、ある事情で、還俗して将軍にならなければいけなくなりました。

 

足利義教の恐怖政治について

 

その事情とは、五代の義量は若くして父親より先に亡くなってしまい、しばらく将軍がいない時期がありました。この時代は将軍が生きている間に位を次に譲っていたので、ちょっとややこしいのです。

 

将軍は直系が継ぐのが普通になっていたため、空白の時間がありました。結局、四代の義持は誰にも位を譲ることなく死んでしまいましたので、六代将軍を決めるのにくじ引きを適用しました。それで当たったのが義教だったので、「くじ将軍」とよばれたりしました。

 

この就任と同じくらいの時期に、徳政、つまり借金の帳消しを求める一揆が起こりました。これは正長の徳政一揆とよばれているのですが、結局は鎮圧されます。問題は、そのあとの義教の政治に対する姿勢でした。

 

義教は将軍としてはそこまで技量も力もなかったので、権力はあるのに中身が伴ってないところがありました。「くじ引きで当たっただけの将軍」だなんて言われたくないものですから、よけいに気張りすぎたのか、自分に対して少しでも逆らったものには容赦なく厳罰を下すという、極度の恐怖政治をするようになってしまいました。





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