藤原仲麻呂政権とその時代

藤原仲麻呂政権とその時代について

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阿倍内親王は聖武天皇のたった一人の子どもでした。聖武天皇は数少ない妃しか持たなかったのです。阿倍内親王は女性なのですが、後継ぎが他にいなかったため、孝謙天皇として即位することになりました。

 

藤原仲麻呂政権とその時代について

 

政治のサポートには藤原四子の長兄である仲麻呂(武智麻呂)がつきました。孝謙天皇の母親は藤原氏の女性である光明皇太后でしたし、親戚筋である仲麻呂がつくのは自然でしょう。757年、それに反発した橘諸兄の子である橘奈良麻呂は、藤原仲麻呂に謀叛の罪を着せられ、倒されてしまいます。これは橘諸兄がこの世を去った直後に起こったことで、橘奈良麻呂の変といいます。

 

実は孝謙天皇は自分の意思で藤原仲麻呂にサポート役をさせたのではなく、光明皇太后に言われてそうしたのです。大事なのは、もっとも力を持っていたのは光明皇太后その人だったというところです。ここから孝謙天皇のもとで藤原仲麻呂が政治的な力を握っていくこととなります。

 

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皇后宮織(729年に新しく設けられた皇后付属機関)が改名されて紫微中台となったのは、749年に孝謙天皇が即位した時ですが、757年に起きた橘奈良麻呂の変を機会に、この紫微中台を天皇より上の立場として制定し、内相の立場を得て、藤原仲麻呂はみずからそのポジションにつきます。

 

光明皇太后がもっとも力を持っていたのは前述したとおりですが、仲麻呂はさらにその力を高め、自分は後ろ盾として権力をふるっていました。しかし、仲麻呂とお嬢様育ちの孝謙天皇はあまり気が合わず、扱いづらいので煙たく思っていました。

 

 

どうにか自分の思いどおりに動かせる人がいないかと仲麻呂は考えますが、そのとき目をつけられたのが大炊王という人で、彼は「日本書記」を編修したことで広く世に知られている舎人親王の子で、天武天皇の孫でした。仲麻呂とは仲がよかったのですが、正当な系統の皇族というわけではありませんでした。

 

この人なら都合が良いと考えた仲麻呂は、光明天皇を説得し、半ば強引に孝謙天皇に位を譲らせて、淳仁天皇として即位させてしまいました。晴れて仲麻呂は紫微内相という権力の中心人物として独裁政治を行いますが、それは皇太后あってのことでした。残念なことにそれが裏目に出てしまいます





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