聖武天皇の歴史について

聖武天皇の歴史について

このエントリーをはてなブックマークに追加  

「唐では、絶対権力者として皇帝が国を治めていますよ」と、唐の情勢を聖武天皇に伝えたのは、中国から帰国した遣唐使である吉備真備や玄ムたちです。その頃は730年代でしたので、大唐帝国が頂点に達していたころで、かの有名な玄宗皇帝が国を統治していました。

 

聖武天皇の歴史について。遷都の変遷などを紹介

 

聖武天皇は、藤原氏とは少し距離を置くようになります。おそらく、遣唐使から報告を受けたことや、藤原四子がいなくなったことがきっかけで、自分自身で国を治めていくのが本来の姿だと反省したのでしょう。

 

そして唐にならって日本を中央集権国家にしていこうと考え、橘諸兄を起用し、吉備真備、玄ムらと一緒に政治に取り組みます。ちなみに橘諸兄は元々は葛城王という皇族で、県犬養三千代と美努王(皇族)のあいだに誕生した子です。

 

しかし、この流れを良く思わない人間もいました。それが藤原広嗣で、藤原四子の子どもの一人(藤原宇合の息子)だったのですが、聖武天皇にとって広嗣は完全に身内の人間だったので、大きなショックを受けました。

 

聖武天皇自身、妻の光明皇后も自分の母親の宮子も藤原の人間なので、疑心暗鬼におちいってしまったそうです。これが740年に起きた藤原広嗣の乱とよばれるもので、九州の大宰府で起こった出来事です。広嗣がうったえたのは、吉備真備、玄ムを追い出してほしいということで、聖武天皇について何かあったわけではなかったようですが、聖武天皇自身はこのことで身内に恐怖心を抱いてしまいました。

 

それ以降、聖武天皇は平城京から、恭仁京、難波宮、紫香楽宮と、逃げるように何度も遷都をすることになります。





このエントリーをはてなブックマークに追加