片岡直温大蔵大臣の失言から金融恐慌に

片岡直温大蔵大臣の失言から金融恐慌に

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護憲三派による第一次加藤高明内閣は、その後、憲政会と立憲政友会の仲が悪くなってしまい、崩壊してしまいました。そこで、憲政会独自の単独内閣として第二次加藤内閣がつくられましたが、加藤が1926年1月に死去したため、若槻礼次郎が後を引き継ぎました。そしてこの年に大正天皇が亡くなり、時代は激動の昭和へと突入していきます。

 

片岡直温大蔵大臣の失言から金融恐慌に

 

しかし、関東大震災が起こってから4年経ったにもかかわらず、若槻内閣は戦後恐慌を引きずっていました。かなり深刻な経済問題は引き続き起きていて、特に震災手形(関東大震災のために現金化できなくなった手形)の処理に困っていました。

 

そこで1927年3月、それを何とかするための法案を議会に提出し、審議している最中に、衆議院予算委員会で片岡直温大蔵大臣がひどい失言をしてしまいます。震災手形割引損失補償で崖っぷちに追い込まれている銀行を早くなんとかしなければいけない、という趣旨ではあったのですが、その一例として「本日、東京渡辺銀行が破綻したが、まことに遺憾であります」と発言してしまったのです。

 

東京渡辺銀行は、一時期確かに支払いを中止せざるを得ない状況にはなっていたのですが、破綻はしていませんでした。午後からまた業務を再開していたのに、まるで倒産してしまったかのように言ってしまったので、どんどん取り付け騒ぎが起こり、その結果本当に倒産してしまったのです。

 

それだけではなく、取り付け騒ぎがほかの銀行にまで影響を及ぼし、中小の銀行がどんどんつぶれるというひどい事態を引き起こしました。これを、昭和初期に起こった金融恐慌とよびます。





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