南京占領について

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近衛内閣は、はじめのうちは日中戦争に対して、不拡大方針をとっていましたが、途中からはむしろ推し進めるようになります。なぜかというと、第二次国共合作によって、中国で共産党と国民政府が手を組んで、抗日民族統一戦線を提唱しだしたからです。

 

南京占領について

 

これにより、日中戦争の大義名分にさらに意味が出てくるわけです。要するに、「自分たちは中国を侵略するために戦争をしているのではなく、中国を共産主義という悪の手から救い出すために戦っているのだ」というわけです。

 

そして、1937年12月に、日本軍は国民政府の首都である南京の占領に成功しました。このときに、日本軍がたくさんの中国人を殺害したという南京事件が起きたといわれています。その結果、国民政府は内陸の奥へ奥へと、重慶へと逃げることとなります。

 

交渉で解決しようとしていた近衛内閣は、それを断念し、「国民政府(蒋介石)を対手とせず」という声明を1938年1月に発表しました。これはつまり、国民政府を中国の正式な政府とは認めない、ということです。

 

 

また、11月に近衛首相は、日本、満州、中国の三つの国が連携することで、強力なアジアをつくっていこうと提唱します。これを東亜新秩序声明といいます。さらに12月には、東亜新秩序声明に賛成する中国新政府が出てくることに期待して、近衛三原則というものを発表します。

 

ちなみに、すでにこの4月には、議会の承認がなくても勅令で国民をまとめられるように、国家総動員法を定めています。しかし、早期停戦法は結局失敗し、陸軍と今後の見通しについて対立し、結局政権を保てなくなり、1939年1月に、総辞職せざるを得なくなっています。





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