第一次護憲運動のスローガンとは?

第一次護憲運動のスローガンとは?

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西園寺内閣の次に登場するのが、第三次桂太郎内閣です。山県系の桂は、議会を無視するタイプの超然主義です。それに対しての反発が起こります。それが第一次護憲運動といって、閥族打破、憲政擁護をスローガンにした運動でした。つまり、憲法に沿った政治を守っていくために、閥族を打破し、官僚支配をやめさせようというものです。

 

第一次護憲運動のスローガンとは?

 

運動の軸になった人物は、立憲政友会の尾崎行雄、立憲国民党(憲政本党から改称)の犬養毅たちで、実業界やマスメディアを巻き込み、全国に広めて、規模を大きくしていきました。

 

政府系の国民新聞社が護憲運動のデモ隊に襲撃されたり、国会が取り囲まれたり、大変な事態を引き起こしたところで、衆議院議長・大岡育造が、「このまま放っておいたら内乱が起こる」といって、桂太郎に退陣するよう迫りました。そして、第三次桂内閣は組閣からたった五十日あまりで退陣するはめになりました(大正政変)。

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シーメンス事件について

 

その次は海軍出身の山本権兵衛内閣が登場しましたが、さすがに激しくなっていた護憲運動の要求をはねのけるわけにはいかず、まず軍部大臣現役武官制を改正しました。現役以外の予備校、後備役の中将や大将でも軍部大臣になれるようにしました。

 

また、以前のように政党員でも高級官僚になれるようにと、文官任用令を緩めました。薩摩出身だった山本ですが、穏健派なので、立憲政友会を与党とし、薩長閥族にとってはあまり都合がよくない政策をどんどん取り入れていきます。その頃、そのやり方に反発して山本内閣をつぶしたいと考えている勢力も登場してきました。

 

 

ここで一旦、古代の出来事を思い出してください。540年に大伴金村が失脚したときの原因ですが、賄賂事件が発覚したからですね。どの時代にもいえることですが、気に入らない政治家の政治生命をつぶしたい時は、醜聞をリークしてバラすというのが最も使われている手段です。

 

そして、1914年にシーメンス事件というものが発覚します。これは、ドイツのジーメンスという会社による日本海軍高官への、軍艦や武器輸出などについての贈賄事件です。これを薩長藩閥の官僚がバラしたため、一気に海軍に対しての批判意識が高まりました。海軍出身であった山本は、責任をとるというかたちで内閣総辞職をせざるをえなくなりました。





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