立憲改進党を作った大隈重信

立憲改進党を作った大隈重信

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山本権兵衛内閣の次の内閣総理大臣をどうするかで、元老たちは悩みました。また閥族にしてしまうと、護憲運動が再発するかもしれない。だからといって、政党に気に入られたいと思っているような政治家では、元老たちも藩閥なので、都合がよくないのです。

 

立憲改進党を作った大隈重信

 

そして仕方なく決まったのが、政界から逃げていたとはいえ、まだまだ国民的な人気は高かった大隈重信です。明治十四年の政変(1881年)で罷免されたのち、健全なジャーナリズムと野党を育てていかないと、日本はだめになるという持論を持っていた大隈は、立憲改進党東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立しました。

 

そして、第二次大隈重信内閣が1914年4月に発足されました。大隈自身が設立した立憲改進党の意思を受け継いだ立憲同志が与党でした。

 

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第一次世界大戦の勃発

 

この頃、ヨーロッパは利害関係から大きく二つに分かれて対立していたため、大きな動きがありました。それぞれオーストリア、イタリア、ドイツの三国同盟と、フランス、イギリス、ロシアの三国協商です。

 

ロシアとフランスは前から仲が良く、三国協商はもともと露仏同盟でした。それに対してロシアとドイツは、ポーランドをはさんで向かい合う位置にあったので、地理的にも対立関係にありました。そのドイツにイタリア、オーストリアが味方をして三国同盟となりました。

 

その頃は三国同盟と、露仏同盟は対立してはいましたが、力関係は同じくらいでしたので、均衡が保たれていたため、戦争は起きませんでした。

 

 

しかし、イギリスが露仏同盟に加わり、バランスが崩れます。なぜイギリスが加わったかというと、理由は二つあります。日露戦争によってロシアの南下政策がストップしたことが一つ目。植民地を少ししか持っていなかったドイツやイタリアが帝国主義化し、職民権獲得に参戦しだしたことが二つ目です。

 

すると、イギリスは南下政策を止めたロシアと対立する必要はなくなるのですが、ドイツ、オーストリア、イタリアに脅威を感じることになります。なので、ロシアとフランスの味方をしだしたのです。

 

 

その力関係が崩れてきたことによって、例えばバルカン半島の紛争や、いろいろな紛争が勃発して第一次世界大戦に突入するのですが、サラエヴォ事件が、戦争の直接の引き金となりました。オーストリアの皇太子夫妻が1914年6月にセルビア人に暗殺されてしまいました。ここでまず、オーストリアとセルビアが戦争になります。

 

そこに、セルビアと親交があったロシアが加わり、さらにフランス、イギリスも参戦します。ドイツはオーストリアにつきました。こうして、最後はヨーロッパ全体が戦争状態となり、世界を二分した第一次世界大戦に突入していくこととなります。日本は、日英同盟を理由にして、ドイツに宣戦布告し、三国協商(連合国)側として参戦しました。





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