松平定信の寛政の改革について

倹約とお米の備蓄で飢饉に備える

このエントリーをはてなブックマークに追加  

家治のあとを継いだのは、十一代将軍である徳川家斉でした。そのもとで老中の筆頭になったのが、白河藩主だった松平定信です。彼は吉宗の孫にあたりますが、老中になったのは、白河藩(いまの福島県)でのあることがきっかけです。

 

松平定信の寛政の改革について

 

もっとも天明の飢饉で被害を受けたのは東北地方だったにもかかわらず、白河藩では東北の中で唯一、餓死者が一人も出ませんでした。そこで白河藩は注目を浴びることとなり、そこの大名だった定信が老中に抜擢されました。

 

彼がやったことというと、飢饉にそなえてお米やお金を蓄えていくというもので、評判が悪かった田沼の政治の路線を変えました。

 

具体的に説明すると、吉宗と同じように、倹約令を出して支出を抑えていく一方で、全国の大名に対して、一万石につき五十石のお米を蓄えさせました。これを囲米といいます。大名でない人たちには、社倉や義倉をさせました。みんなでお米を持ち寄って蓄えておくことを社倉、お米をたくさん持っている人がみんなのために有志で備蓄することを義倉といいます。

 

スポンサーリンク

 

ホームレス対策

 

旧里帰農令が出されたのは、1790年のことです。その頃、飢饉のせいで農村で生活を送れなくなってしまい、仕方なく都市部に出てきた人がたくさんいました。しかし、江戸に来たからといって仕事があるわけではなく、多くの人がホームレス、つまり無宿人になってしまいました。村から逃げ出した人には制裁が待っていたので、簡単に農村には戻れませんでした。

 

そこで松平定信は、江戸に流れてきた無宿人たちに、農村に戻るようにすすめ、そのための資金も用意しました。また、地元に対しても、戻った人に制裁を与えないようにしました。これは強制というわけではなかったので、そのまま都会に残る人もいますが、ホームレスが増えると治安も悪化するので、人足寄場というものも設置して、そこに強制的に無宿人を集めて仕事を教えるなど、職業訓練もおこないました。

 

無宿人や貧しい人への救済策として、七分積金というシステムもつくられました。これは、町入用(町内会の経費)を節約させて、節約した分の七割を積み立てさせて、そのお金を町会所が運用し、無宿人の救援や貧民を援助するためにあてるというものです。





このエントリーをはてなブックマークに追加