大塩平八郎の乱とは?

大塩平八郎の乱とは?

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1837年、相次いで起こったのは、大塩の乱と生田万の乱です。陽明学者の大塩平八郎が起こしたのが大塩の乱です。もともと大塩は、大坂町奉行所の下級役人だったのですが、飢饉で人々が困り果てているのに、町奉行所ははそれに対して何もしようとしなかったので、門弟たちと一緒に反乱を起こしました。

 

大塩平八郎の乱とは?

 

天保の飢饉のときは、大阪の町でも餓死者がたくさん出ました。死ぬよりはましなので、どれだけお金を払ってもお米を買おうとするのが人間です。つまり、餓死者が出れば出るほど商人は儲かるのです。

 

そうすると、ここがチャンスとばかりに、商売人は米が目の前にあってもないふりをして、米の価格を吊り上げます。できるだけ高く売りたいというのが商人ですが、金の亡者になって、人間らしい心を忘れてしまっているのです。

 

その時、大阪奉行所はどうしたかというと、本当は目の前で困窮にあえいでいる人たちを助けるべきなのに、将軍様のいるところで飢饉が起こっては大変だ、ということで、大阪にあったはずのお米をどんどん江戸に送ってしまいました。

 

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すると、「大阪もきっと困っているはずなのに、江戸にお米をまわしてくれた。えらい!」ということで、お役人は、さらに良いポストに就けたのです。一般の人にとってはそんな裏があったことはわからないでしょうが、下っ端とはいえ、大塩平八郎は大阪奉行所の役人だったので、奉行から命令を受けてお米を江戸に運んだ人間の一人です。そういった状況を見て憤慨し、悲しみ、なんとかしなければ、と思うのです。

 

結果としては、たった半日で鎮圧されてしまいますが、そのときの政治体制の悪いところに対して指摘をして行動を起こしたという意味では、近代的な労働民衆運動の先駆けとなった事例です。

 

そのほかに、同じように貧民救済のために行動したのは、越後(いまの新潟県)の国学者である生田万です。そして、この流れに引っ張られるようにして、各地でどんどん農民一揆や打ちこわしが起こりだしました。





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