建武の新政の失敗の理由とは?

建武の新政の失敗の理由とは?

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後醍醐天皇は幕府の滅亡後に、隠岐から脱出して京に戻ります。そして、ここから建武の新政がはじまりますが、これは1333年からはじまった後醍醐天皇による親政のことです。一般的に、天皇の命令は宣旨といって、太政官が審議をしてから発令されます。ほかに、蔵人所の審議だけで手軽に出せる綸旨というものもあります。

 

建武の新政の失敗の理由とは?

 

土地を媒介としたものがこの時代の武家社会だったので、誰がこの土地の持ち主だ、というような、ほとんどの法律が土地の支配に関係するものでした。なので、後醍醐天皇の綸旨にも、土地のことについて考えられたものが多かったのですが、この綸旨に、その頃の武家社会の常識では考えられないような部分が多く存在していたことが問題でした。

 

たとえば、承久の乱などで武士のものになったはずの土地まで、もとの貴族のものだと認められたり、そのような綸旨がどんどん出されました。

 

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しかし、武家社会では、土地を20年以上支配することができれば、その人の持ちものになるという考え方が定着していました(二十ヵ年年紀法)。平安時代から同じ土地に住み続けていた武士もたくさんいるので、こうなると、建武の新政では自分たちの土地があぶないということで、武士のあいだから大きな批判が出ることになります。

 

本来は、後醍醐天皇の綸旨は絶対である、とされていたのに、実際は相当な朝令暮改だったようで、一気に改革せねばと焦るあまり、スピード重視でさっさと処理してしまいます。恩賞をみても、公家には良くしているのに、武士には冷たい対応をとっていました。命がけで討幕を一緒に頑張ってきた武士たちが不満を抱かないはずがありません。

 

 

もともと建武の新政は平安時代の延喜・天暦の治を目指していましたが、その時代の武士はただのボディガードだったわけで、そのただのボディガードを政策の計画に加わらせようとなど、考えるはずもありません。

 

討幕の中心人物でもあった足利尊氏は、建武政権で重要な職に就くことすらできませんでした。ここでも大きな反乱が起こることとなります。





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