藤原不比等の生涯について

藤原不比等の生涯について

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大きく三つの期間に分けることのできる奈良時代は、それぞれ次のようになります。8世紀前期の聖武天皇の時代が第一期。聖武天皇の娘の時代で、8世紀中期ごろが第二期。そして、天智天皇の系列に戻る8世紀後期が第三期。いずれの時期にも三代ずつ天皇がいました。

 

藤原不比等の生涯について。大宝律令の制定に対する中心人物

 

元明、元正、聖武が第一期の天皇です。草壁皇子の妻が元明天皇、文武天皇の姉にあたる人物が元正天皇で、この二人が女帝でしたが、あくまでも文武天皇の子である聖武を天皇にするためのつなぎ役でした。文武天皇のときと同じですね。実はその裏で藤原不比等が政務をあやつっていました。

 

文武天皇の時代に大宝律令が完成したのは前に説明したとおりですが、藤原不比等は大宝律令制定の時に中心となって政治方針をつくっていき、その結果権力をもっていきます。しかし、他にも彼のすごいところはいくつかあります。不比等はまず文武天皇のもとに自分の娘である宮子を嫁がせます。

 

そして、二人の間に誕生したのがのちの聖武天皇となる首皇子だったのです。元明天皇の頃に起きた大きな出来事には、710年に平城京に遷都したこと、そして「古事記」が712年に、「日本書記」が元正天皇の代の720年に完成したことなどがあげられます。その中で天皇は天皇直系の皇統が引き継いでいくのが当たり前という考えが強調されましたが、それが万世一系です。

 

その頃は皇族が大勢いたので、決して天皇の候補である男子が少なかったわけではないのですが、それでは不比等にとって、自分の孫を天皇にすることができないかもしれないので都合が悪かったのです。要するに、文武天皇の息子である首皇子を天皇にするために提唱されたのが万世一系だとも考えられるわけです。

 

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しかし、不比等は720年にこの世を去ってしまいます。せっかく自分の孫を天皇にしたいという強い想いのもと、万世一系の皇統が天皇になるべきだと「古事記」や「日本書記」でアピールしてきたのに、まさに日本書記が完成した720年に、しかも首皇子が大人になる寸前に死んでしまったのです。

 

これは彼の誤算だったのでしょう。万世一系の考えが裏目に出てしまいます。皇族たちのあいだに「本当ならこの国を支配するのは万世一系の皇統であるはずなのに、蘇我氏や藤原氏などが出てくるのはおかしい。そのせいで変な時代になってしまった」という考えが生まれてしまい、その勢力が長屋王(高市皇子の子であり文武天皇の孫)をリーダーとして、不比等にかわり、政治的な権力をつかむことになるのです。

 

 

この時代で注目すべきところは、藤原不比等→<長屋王>→藤原四子→<橘諸兄>→藤原仲麻呂→<道鏡>→藤原百川というように、藤原と<反藤原>が権力者として代わり番こに登場してくるところです。ちなみに、道鏡は僧侶で、長屋王と諸兄は皇族の出身です。

 

また、藤原四子が登場すると長屋王の変が起こり、橘諸兄のときは広嗣の乱が起き、藤原仲麻呂が出てくると橘奈良麻呂の変、道鏡が登場すると恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱、百川が出てくると道鏡が追放される、といったように新たな権力者が登場すると、以前の権力者が必ずつぶされるという図式の時代でした。こうして整理してみていくと、誰がどの時期に何をしたかがよく分かってくると思います。





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