戦後恐慌と原敬首相の暗殺について

戦後恐慌と原敬首相の暗殺について

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戦争中は、大戦景気に沸いていた日本国内ですが、ヨーロッパは総力戦をやっていたので、アジア市場に商品が輸入されなくなりました。そこに注目した日本が、アジア市場で商品をどんどん売りさばいて、その結果、景気が良くなったのです。

 

戦後恐慌と原敬首相の暗殺について

 

とくに造船業、鉄鋼業、海運業は急成長を果たして、日本は世界第三位の海運国にのし上がりました。この時代、船成金や鉄成金といった人々がたくさん登場してきます。日本の人口も七千七百万人に増えて、明治維新からこちら50年ほどで倍近くになっています。

 

農業依存の社会で維持できる人口は少なく、江戸時代のはじめから明治初期まではずっと三千万人ほどでした。それが、産業が発達することによって工場の労働者などが増えて、飢饉が起こってもある程度生き残れるようになったのです。

 

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しかし、第一次世界大戦が終焉を迎えると、ヨーロッパがアジア市場に戻ってきます。するととたんに日本の品物は売れなくなります。当時はアジア市場で物が不足していたから売れていただけで、日本の商品が安くて高品質だったから売れていたわけではありません。

 

国際競争力が高いヨーロッパの商品がアジアに戻ってくると、日本製品の売れ行きはがくっと下がるのです。その結果、不況から恐慌になってしまい、これを1920年の戦後恐慌とよびます。アジアで儲からなくなり、税収も減ってしまうと、四大政綱の公約実現は難しくなります

 

 

すると、政策に対して批判が起こりますが、原内閣は衆議院で絶対多数を掌握していたため、そのまま政治運営を続けました。そんななか、1921年11月に、原敬首相が東京駅で刺殺されてしまいます。そんな事件が起こり、原敬内閣は終焉を迎えました。

 

たしかに人口が増えるとそれだけ市場規模も拡大するのですが、アジアに輸出しようにも、とてもヨーロッパにはおよばなかったので、日本の産業革命の限界が見える時代でした。

 

 

対して、全世界に植民地を持っていたイギリスは、植民地を基盤に産業革命で生まれた大量生産品を売りさばくことで、大量生産の原料も仕入れていました。すると、日本にもやはり植民地が必要なのではないか、ということになります。どうしても、産業革命の行き着く先は帝国主義となってしまうのです。





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