パリ講和会議でのベルサイユ条約について

パリ講和会議でのベルサイユ条約について

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パリ講和会議が1919年に開かれ、戦勝国の一員として、日本からも西園寺公望、牧野伸顕が出席しました。ここで結ばれた条約がヴェルサイユ条約で、この会議で定められた体制がヴェルサイユ体制です。

 

パリ講和会議でのベルサイユ条約について

 

この会議では、民族自決が唱えられました。これはアメリカのウィルソン大統領が発言したもので、ある民族がある民族を支配する状況があるから植民地支配もなくならないわけで、それを避けるためには、それぞれの民族が独立するべきである、といったものです。

 

ただし、ここでいう民族自決とは、あくまでも白色人種に限ったものだったので、これに対して日本は、人種差別撤廃案を世界ではじめて提唱するのですが、イギリス、アメリカに反対されて否決されてしまいました。

 

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パリ講和議会では、世界平和の機関をつくって、二度とあのような戦争は起こらないようにしよう、ということで、国際連盟が設立されました。国際連盟の常任理事国は、イギリス、フランス、日本、イタリアの四カ国で、ロシアとアメリカが入っていないことが問題となりました。

 

なぜ国際連盟に入れてもらえなかったかというと、その頃のロシアは、ロシア革命が起こった直後で、当時ほとんどの国がソヴィエト革命政権を国家として認めていなかったからです。また、ドイツも敗戦国のため、加入が認められませんでした。

 

アメリカは国際連盟の設立を推し進めた国なのに、なぜ加入していないかというと、モンロー主義を唱えていたからです。これは、アメリカの五代大統領のモンローが唱えていた、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸の相互不干渉主義からくるものです。

 

また、全会一致が原則の国際連盟でしたが、各国が結局自分の国の利益を一番に考えるため、抑止機能としてはうまく働かないという問題点も浮き出てきました。





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