護憲三派による第二次護憲運動について

護憲三派による第二次護憲運動について

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山本内閣のあとを継いだのが、1924年1月発足の清浦奎吾内閣です。彼は、貴族院と官僚の勢力を味方につけて、政党から一人も入閣させない超然内閣を組織しました。これに対して、憲政会(加藤高明)、立憲政友会(高橋是清)、革新倶楽部(犬養毅)の三党が、第二次護憲運動をはじめ、打倒内閣を目指しました。この三党を一緒にして、護憲三派といいます。

 

護憲三派による第二次護憲運動について

 

それに対抗するかたちで清浦内閣は解散・総選挙を試みますが、結果としては、護憲三派の圧勝でした。そして、護憲三派による内閣が6月に発足し、憲政会が第一党となり、加藤高明が総理大臣になりました(第一次加藤高明内閣)。

 

ところで、大正天皇が即位したときに、元老は六人いて、山県有朋、松方正義、井上馨、大山巌、桂太郎、西園寺公望がそうでしたが、十数年の時が経つうちに次々に亡くなり、松方正義が1924年7月にこの世を去ったあとは、元老は西園寺公望のみとなっていました。

 

もと公家の西園寺は、あまり藩閥にとらわれるタイプではなかったので、この加藤高明内閣以降は、二大政党の党首が代わる代わる総理大臣に就任するという、いわゆる「憲政の常道」という慣例がはじまりました。戦前は、1932年の犬養毅内閣までがこのかたちでした。

 

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普通選挙法と治安維持法について

 

この時代は、政治学者の吉野作造を軸とした民主主義的改革を求める大正デモグラシーの影響もあってか、世論の力が表に出てくるようになりました。そういった背景もあったため、加藤内閣が1925年にまずしたことは、普通選挙法の制定でした。

 

これにより納税額による制限がなくなり、衆議院議員の選挙権が、満二十五歳以上の男子全員に与えられました。普通選挙が導入されることによって、資産を持っている人もそうでない人も選挙に参加できるようになり、有権者の数が一気に四倍以上に増えました。

 

護憲三派による第二次護憲運動について

 

ただし、女性の参政権が認められたのは戦後になってからで、この時はまだ男子のみでした。もう一つの重要なものは、治安維持法の制定です。この年に、日本は新たに建国されたソヴィエト連邦(ソヴィエト社会主義共和国連邦)と国交を樹立し、日ソ基本条約をむすびましたが、これにより、日本国内で社会主義、共産主義が広まる恐れがありました。

 

また、普通選挙制度の導入にともない、無産政党(財産を持っていない工場労働者や小作人などの無産階級の利益を代表する政党)からも国会議員が出ないとは限りません。そこで、国体の変革や、私有財産制度に反対する結社を取り締まるための法律が必要になったわけです。

 

 

しかし、治安維持法はその後、戦争へと突き進む政府によって、都合よく利用されてしまいます。





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