閑院宮家の創設で将軍の権威の回復を図る

閑院宮家の創設で将軍の権威の回復を図る

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先の四代・五代の問題点といえば、側近政治になっていたことで、酒井忠清(四代家綱の老中・大老)、柳沢吉保といった人物が活躍していました。なかでも、五代綱吉が側用人である柳沢吉保に重要な役を任せすぎていたので、側用人が自分の財産をうるおしていたり、弊害もでてきました。

 

閑院宮家の創設で将軍の権威の回復を図る

 

ちなみに、将軍の側近として、将軍と老中の橋渡しをする人のことを側用人といいます。家宣にも、間部詮房という側用人がいたので、そういった害をすべてなくしていくのは難しかったようです。

 

この頃、将軍の権威がすこしずつ落ちかけていました。そこで、閑院宮家という宮家をつくることにします。その頃の宮家には、伏見、桂、有栖川の三つしかなく、この中に入れなかった皇子や皇女にかんしては、門跡寺院(皇族が出家できるお寺)で出家生活するしかありませんでした。朝廷にもお金がなかったのです。

 

それを続けていると、朝廷の権威を落とすことになるので、新しく宮家をつくったのです。経済的な理由で子どもを出家させていては、世間体もよくないですからね。そうして朝廷の権威をあげつつ、将軍の権威も高めていこうという作戦でした。

 

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また、朝鮮からの使節である朝鮮通信使の待遇も変えました。いままでは、将軍のことを朝鮮通信使に呼ばせるときは、「日本国大君殿下」だったのですが、それを「日本国王」と改めさせました。

 

これには二つの意味があって、一つ目は、将軍こそが日本国の代表である、と朝鮮の人に言わせるためです。「大君殿下」では、国内で権力のある人、という意味ではあるのですが、一国の国王というわけではありません。そこを「国王」とすることで、国の元首、つまり日本国を代表する権力者という意味になります。

 

二つ目は、朝鮮にとって「大君」とは、ご主人様や親分様といった意味合いが強いので、幕府は彼らの面倒を見なければなりませんでした。日本が親分と呼ばれているかぎり、朝鮮は子分なのです。

 

 

その頃、朝鮮通信使を迎えるにあたって莫大な費用がかかっていました。滞在費、交通費、宿泊費やおみやげ代まで、すべて合わせると一回に百万両は下りません。これは、幕府にとって非常に負担でした。

 

なので、親分という意味の「大君」と呼ぶのをやめさせることによって、あくまでも対等な国王と国王の関係ですよ、ということにすれば、権威も上がるし、面倒も全部見る必要はないので、良いことづくしでした。





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