公議政体論について

公議政体論について

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薩摩連合があるうえ、ともに討幕になったので、すぐにでも幕府を倒せる準備が整いました。しかし、幕府を倒して朝廷中心の政治体制をつくっていこうとしたその時に、一番大事な人が討幕に反対をします。公武合体論者である、孝明天皇その人です。

 

公議政体論について

 

一体どうなるかというと、いきなり孝明天皇が死にます。これも同じく1866年12月のことで、体中に黄色の斑点が出て死に至ったそうなので、硫黄系の毒の症状だといわれていますが、とにかく死んでしまいます。

 

そのあと、明治天皇が1867年1月に即位しますが、薩摩連合は、朝廷内の討幕派である公家の岩倉具視と手を組み、討幕の密勅を出させるように計画を立てます。そのころ、まだ明治天皇は14歳だったので、思うとおりに動かせます。岩倉具視は明治天皇に詰め寄り、密勅を出させます。内容は、「10月14日に討幕の行動を起こせ」でした。

 

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一方、討幕をなんとかやめさせたいと思っていた人間がいました。それは坂本龍馬です。新しい政府の骨組みをつくったのは坂本龍馬なので、当然討幕派だと思っている人が多いのですが、彼は公議政体論なので、違います。

 

将軍が議長となり、公家、諸大名、下級武士たちを構成員とした議会をつくり、議会政治として国家を動かしていこうという考え方が、龍馬の国家構想「船中八策」に出てきます。なぜ龍馬がそんなことを考えたかというと、欧米列強の植民地に、日本がなってしまうことを危惧していたからです。討幕が起こると、日本は内紛状態になり、そこに目をつけたイギリスやフランスが国を混乱させるおそれがありました。

 

 

当時の彼らのやり方は、混乱に乗じて植民地化するか、なんらかの権益を手にしていくというもので、東南アジアやアフリカでもそういったやり方をさんざんおこなっていました。なので、イギリスやフランスは、相手の国に内紛が起こるのを待っていました。そもそもイギリスが薩摩の、フランスが幕府の、それぞれのバックについて内紛をけしかけていたようなところが見え隠れしていました。

 

その陽動作戦にすっかりひっかかってしまった中国は、租界(治外法権の外国人居住地)を設置されたり、香港を割譲されたりしてしまったのです。坂本龍馬がどこまでそういうことを予想していたかは分かりませんが、内紛が起こることについてはとにかく良く思っていなく、ヨーロッパ諸国に植民地侵略のチャンスを与えてしまうかもしれないと考えていたのは事実でしょう。





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