討幕の密勅と大政奉還について

討幕の密勅と大政奉還について

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下級武士であった坂本龍馬は、将軍に直接会って話ができるような立場にはありませんでした。そこで坂本は、土佐藩の後藤象二郎という上級武士と手を組み、土佐藩主である山内容堂を動かすことで、大政奉還をするように将軍を説得しました。山内容堂は将軍と一対一で話ができる立場にあります。

 

討幕の密勅と大政奉還について

 

大政奉還とはどういったことかというと、朝廷に征夷大将軍として与えられていた権限を返納するということです。すると、その時点で、幕府はなくなることになります。滅亡するのではなく、消えてなくなるということなので、勘違いしないでください。

 

 

以前に書いたように、すでに討幕の密勅が出ていて、それには「10月14日に幕府を倒せ」とあります。しかし、10月14日に幕府がもし存在しなければ、倒そうにも倒せなくなり、討幕の密勅を有名無実化できるということになります。それが大政奉還です。

 

徳川慶喜は山内容堂の説得を聞き入れます。公儀政体論に自分も乗っていこうと決めるわけですが、それは、議会で重要な役職に就いてさえいれば、そのうち幕府ができて、将軍の地位に戻ることができるかもしれない、という思惑もあったのでしょう。

 

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しかし、討幕派としては幕府をなくそうとしているわけで、そうなってしまっては意味がありません。なので、可能性をなくすために出されたのが、12月9日の王政復古の大号令というもので、具体的には、摂政、関白、幕府の廃止です。これで慶喜が考えていたような幕府の復活は永久に望めなくなりました。

 

それだけでなく、同日に開かれた新政府の首脳たちによる最初の会議(小御所会議)にて、辞官納地を徳川慶喜に対して要求することを決定します。辞官とは、文字通り官職をやめることですが、将軍はすでに10月14日に辞めています。なので、もう一つの官職である内大臣を辞めることを指します。

 

 

つまり、朝廷体制の中での権限をすべて無くすことと、幕領、天領を放棄する(納地)という意味のことを、慶喜に求めるわけです。しかし、慶喜としては幕府の復活を望んでいるので、そんな要求は呑めません。自分から引退したくて大政奉還したわけではないので、会議の決定を拒んで、大阪城に立てこもってしまいました。

 

そして、内戦である戊辰戦争がはじまってしまうわけですが、それは坂本龍馬がもっとも恐れていたことでした。その時、坂本龍馬自身はどうしていたのでしょうか?彼は王政復古の大号令の約1ヶ月前である11月15日に、盟友である中岡慎太郎とともに、京都の近江屋で暗殺されていたのです。





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