徳川家康の関ヶ原の戦いについて

徳川家康の関ヶ原の戦いについて

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1598年、秀吉の息子の秀頼がわずか五歳のときに、秀吉は亡くなりました。その頃家康は五大老の筆頭で、はじめは秀頼の後見人という立場にいましたが、だんだん秀頼を無視するようになり、伏見城で実権を握っていきました。そうなると反乱が起きるのは当たり前です。

 

徳川家康の関ヶ原の戦いについて

 

そして、1600年に関ヶ原の戦いが勃発します。これは石田三成と、徳川家康の戦いでした。徳川家康が東軍、毛利輝元が西軍が中心となりますが、結果は東軍の勝利でした。西軍に所属していた石田三成や小西行長は処刑され、大名九十三家と五百六万石が改易(とりつぶし)されました。

 

毛利が百二十万石から三十万石、上杉が百二十万石から三十万石の減封を受け、秀吉の息子である豊臣秀頼にいたっては、摂津、河内、和泉(いまの大阪府)六十万石の一大名にされてしまいます。

 

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将軍は徳川の世襲になる

 

そののち、徳川家康は征夷大将軍の宣下を受けて、1603年に江戸幕府をひらきます。このときまずはじめに家康は、全国の大名に国絵図と郷帳を作成させ、提出させました。ちなみに領地全体の地図を国絵図、村ごとの検地帳のことを郷帳といいます。自分のところに持ってこさせるというところがポイントで、自分こそが全国の支配者であるということを知らしめるためでもありました。

 

 

その2年後の1605年に、家康は自分の子どもの秀忠に将軍職を譲位させます。これは、「戦国時代のような天下持ち回りの時代ではなくなった」ということを示すためで、将軍職は徳川家の世襲となったと世間に分からせました。

 

そのあと、家康は政治から退いたかというと、そうではありません。家康は駿府(いまの静岡市)に住居を移し、大御所(前将軍)としてバックから政務をとりつづけます。

 

 

つまり、自分が死んだ後に後継争いでゴタゴタしないように、生きているうちにしっかりと後継者を決めておいたということです。二代目の秀忠も死なないうちに自分の子どもの家光を将軍にさせて、大御所となりました。





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