坂本龍馬の尊王攘夷運動

坂本龍馬の尊王攘夷運動

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長州にとって大変な2ヶ月となったのは、1864年の7月から8月にかけてです。その結果、仕方なく長州藩は尊王攘夷の考えをあらため、幕府に従う姿勢を見せます。つまり、幕府の言いなりになると言い出すのですが、長州藩の下級武士たちは、これに反発します。

 

坂本龍馬の尊王攘夷運動

 

なかには、崇高な理想を持って生きていた藩士もいましたが、大半の下級武士は、尊王攘夷だからこそ、それを実現するための鉄砲玉という役割を持てていたので、それがなくなってしまうと、またしがない下級武士に逆戻りになってしまうと考えました。

 

そして、高杉晋作を中心とした奇兵隊が1864年12月にクーデターを起こし、長州藩の実権を握ることに成功します。この頃には、高杉や桂小五郎(木戸孝允)もさすがに攘夷はあきらめていたので、尊王だけが残されることになります。このまま幕府に任せていては、朝廷を軸とした国づくりは難しいと考え、討幕という目標が生まれてきました。

 

このあと、大久保利通や西郷隆盛らによって、薩摩藩でもだんだん下級武士が力を持つようになってきます。そして、長州藩と薩摩藩、それぞれの力がある藩で、どちらも下級武士が実権を握りだしていることにいち早く目をつけたのが、土佐の坂本龍馬でした。

 

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そのころの土佐藩(いまの高知県)は、きびしい差別があり、上級武士と下級武士の身分の差がはげしかった時代で、下級武士たちは自分の力の弱さを痛いほど分かっていました。下級武士というのは、当然一人では非力で、たとえ一つの藩で下級武士が実権を握ったとしても、全体としてはまだまだ弱いのです。

 

そこで、坂本龍馬は、幕府、朝廷、大名たちに対して、対等にものが言えるようになるにはどうしたらいいか考えました。そして、下級武士たちが連合を組んでしまえばいいという考えに至ったわけです。一人一人は弱くても、大勢の下級武士たちが連帯すれば、一大勢力になり得ます。

 

まず、坂本龍馬は、その話を薩摩と長州に持ちかけにいきます。薩摩も長州も同じような考えを持っていて、下級武士が実権を握って世の中を動かすには、自分たちだけでは足りないと思っていたので、坂本龍馬の要請を受け入れ、薩摩連合を組んでいくことになりました。





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