生麦事件と薩英戦争について

生麦事件と薩英戦争について

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改革を進言して薩摩へ帰る途中だった島津久光は、生麦事件を横浜で起こしてしまいます。島津の行列の前を通ったイギリス人を、藩士が斬って殺してしまったのです。なぜ、島津は外国人を切り殺してしまったのでしょうか。島津は幕府と同じく公武合体の考えを持ってはいたのですが、薩摩藩の目指すところは、幕府のような開国派ではなく、孝明天皇のような攘夷目的だったのです。なので、外国人に対しては厳しく対処したのです。

 

生麦事件と薩英戦争について

 

ここで覚えておいてほしいのは、西洋人の考えの根底には、「やられた時にやり返さないと、負けを認めたことと同じ」というものが常にあるということです。なので、こういったことがあると、彼らは必ずこちらに対して報復してきます。

 

そして、その翌年の1863年に薩英戦争がはじまります。もちろん生麦事件の仕返しのため、イギリス軍が鹿児島湾を攻めてきました。その頃の薩摩藩は、日本の中でもかなりの軍事力を誇る藩で、自信はあったのでしょうが、その自慢の軍事力もイギリス軍の前ではなすすべもなく、たった一隻の軍艦によって砲台から何まで全て駆逐されてしまいます。

 

その事件があってやっと薩摩藩は、攘夷というものはあくまでも理想で、実現するのは無理だと悟ります。そして考えが変わり、どちらかというと幕府に近い思考をもつようになります。それはつまり、幕府と距離が近づき、長州藩とは距離が遠くなったということになります。





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