徳川綱吉の元禄小判の鋳造

徳川綱吉の元禄小判の鋳造

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この財政難をなんとかしなければいけない、ということで、1695年に元禄小判の鋳造がおこなわれました。勘定吟味役の荻原重秀がこれを主導しました。つまり、新しい小判をつくったのですが、いままでの小判の金の含有量が四匁(約十五グラム)だったのに対し、新小判は二・六匁(約十グラム)と、およそ三分の二ほどに減らしました。これで二枚しかできなかった小判が、三枚できることになります。

 

徳川綱吉の元禄小判の鋳造

 

その結果、本当は一千万両しかつくれなかった小判を、一千五百万両と、五百万も上乗せすることができるようになりました。質を落とすことによって、幕府の財政を立て直そうとしたのですが、これは結局うまくいきませんでした。

 

一時は幕府の懐をうるおすことはできたのですが、深刻なインフレーションを起こしてしまうきっかけになりました。悪質な小判をたくさんつくってしまったので、貨幣の価値が落ちてしまったのです。

 

たくさんの小判をつくるとどうなるかは、物の値段がどうやって決まっているかを想像してみればわかることです。物の値段は買い手がどれだけお金を持っているかで決まるのです。製造原価に経費や儲けを足して・・・と考えるのは売り手ですが、結局売れなければその物に見合う金額ではないということです。

 

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買い手の懐が豊かなら、お金をとることもできるので、売り手は高めの値段をつけ、結局物価は上がるのです。つまり、小判をばらまくことで、物価の上昇が急に進んだのです。

 

綱吉というと、生類憐みの令などの理解しにくい法令を出した将軍、という良くないイメージがあるとおもいますが、あれは跡継ぎがどうしても欲しかった母親がとんでもない行動に出てしまったというだけで、綱吉自身は、学問の奨励や、朝廷対策など、理にかなった行動をとっていた真面目な将軍だったといえます。

 

綱吉自身は理想に燃えていたのですが、その結果、いろいろなところにお金をかけすぎて、財政難を引き起こしてしまったということです。





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