日独防共協定から日独伊三国防共協定へ

日独防共協定から日独伊三国防共協定へ

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二・二六事件が起こったことで岡田啓介内閣が辞職したあとは、意外にも文官が登場します。外交官出身であった広田弘毅は、1936年3月に組閣しました。この人は、終戦後にA級戦犯に認定されて死刑になりましたが、軍人以外ではたった一人のみでした。

 

日独防共協定から日独伊三国防共協定へ

 

この人がどういったことをしたかというと、軍部大臣現役武官制を復活させたのです。つまり、陸軍大臣と海軍大臣は現役の軍人のみが就任できるという規定を生き返らせたのですが、これが問題となりました。

 

もちろん、軍部から圧力がかかってこそですが、今後、軍部の許しなしに内閣を組織することができなくなったのです。広田内閣がおこなったことで、もう一つ重要なことは、国策の規準を定めたことです。つまり、アメリカやイギリスに対して対抗できるように、軍備を優先したのです。

 

そもそもソ連に対しては、「防共」という言葉でずっと伝えてきましたが、イギリスやアメリカと戦うことも視野に入れなければいけないので、それに対抗できる策も持っておこうということで、初めてそれをはっきりさせたのが国策の規準です。

 

外交では、国際的に孤立している状況をなんとかするために、ドイツと親交を深めていきます。その結果、日独防共協定が結ばれました。これに、翌年1937年にイタリアが加入し、日独伊三国防共協定へと進化していきます。

 

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幻の宇垣一成内閣

 

結局、軍部と対立することになった広田弘毅内閣は退陣に追い込まれますが、そのあと、一時は陸軍穏健派である宇垣一成に組閣の命令が下るのですが、宇垣は皇道派や統制派のどちらでもなく、無派閥でした。

 

宇垣は元老の西園寺公望が推薦したのですが、この推薦に不満を持っていた陸軍の統制派は、軍部大臣現役武官制を使うことで、陸軍大臣を任命しようとしませんでした。宇垣は加藤高明内閣で陸軍大臣を務めていましたが、陸軍の大規模軍縮を勧めていた人物だったので、風当たりも強かったのです(これを宇垣軍縮といいます)。

 

 

その結果、天皇から組閣の命令が下っているにもかかわらず、このままでは陸軍大臣が決まらないからという理由で、宇垣一成内閣は実現することがありませんでした。その次に総理大臣に就任したのは、陸軍統制派であった林銑十郎です。その内閣のうち、政党員の閣僚は一人のみでした。

 

これ以降は、陸軍統制派が許さない内閣はつくれないという状況ができあがります。つまり、軍部が政権を握るという状態になってしまったわけです。





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