石山本願寺の一向宗の弾圧について

石山本願寺の一向宗の弾圧について

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では、第三期をみていきましょう。全国を統一するために必要なことは二つあって、一つ目が、まず戦国大名のトップに立つことでした。そして二つ目が、宗教勢力を完全に支配してしまうことです。

 

石山本願寺の一向宗の弾圧について

 

まず、大名の頂点に立つにはどうしたらいいでしょうか。全国にごまんといる大名を一人ずつ倒していては、とても時間が足りません。ならばどうするか。単純に、一番力を持っている大名を倒せばいいのです。すると他の連中は9割はついてくるでしょう。もしついてこない者がいたら、それはそれで倒してしまえばいいのです。

 

宗教勢力にも、それと同じことが言えます。親分を倒せば、あとは逃げるかついてくるかするわけで、その頃一番力を持っていた集団さえなんとかしてしまえば、ほかの宗教勢力も従わざるをえなくなるということです。当時、宗教勢力のトップにいたのが一向宗(浄土真宗)で、本拠地は、大阪の石山本願寺でした。

 

ここはお寺の敷地内に町がある、いわゆる寺内町という地形でした。つまり町全体がお寺というとても大きなものでした。しかし、そこのすぐ南にある堺が織田信長の支配圏となったので、一向宗は脅威に感じていました。

 

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この頃は京都でいろいろあった時期でした。一向宗の信徒たちは、信長が堺を制圧した翌年の1570年に、信長に対して挙兵し、石山戦争をはじめました。しかし、信長は無理に対抗しようとはしませんでした。そこまで手が回らなかったともいえます。

 

それがおさまるのを待ち、伊勢長島の一向一揆を1574年に制圧します。因みに、伊勢長島は一向宗が勢力を誇っていたところです。そのつぎに、越前の一向一揆も制圧しました。1575年のことでした。そうして少しずつ勢力を削ぐことで、1580年に石山本願寺を服属させていったのです。

 

それだけでなく、もう一つの過激な宗教団体である日蓮宗が、京都を軸に法華一揆などを起こしていたのですが、こちらも平定することに成功しました。





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