江戸の政治改革期

江戸の政治改革期記事一覧

新井白石と間部詮房の登用

徳川綱吉の跡継ぎは、六代・家宣です。彼は三代・家光の孫で、甲府の藩主だったのですが、綱吉に子どもがいなかったため、養子となって将軍に就任しました。たとえ将軍が変わったとしても、幕府がお金に困っていることに変わりはありません。なので、家宣は朱子学者である新井白石と側用人の間部詮房を登用します。朱子学と...

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閑院宮家の創設で将軍の権威の回復を図る

先の四代・五代の問題点といえば、側近政治になっていたことで、酒井忠清(四代家綱の老中・大老)、柳沢吉保といった人物が活躍していました。なかでも、五代綱吉が側用人である柳沢吉保に重要な役を任せすぎていたので、側用人が自分の財産をうるおしていたり、弊害もでてきました。ちなみに、将軍の側近として、将軍と老...

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海舶互市新例により金銀の海外流出を防ぐ

結局財政難の原因となってしまった元禄小判の発行をやめた新井白石は、金の量をもとに戻した正徳小判をつくります。しかし、金の量が増えたり減ったりごちゃごちゃしたので、市場は混乱してしまいました。海舶互市新例を1715年に出したのですが、こちらも重要です。その頃、鎖国をしていた日本ですが、長崎で清とオラン...

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元禄文化の特徴について

文治政治をつくりあげていった時代の文化を元禄文化といいます。この頃は、文芸・芸能の面ですばらしい作品が世に出てきました。まず、大阪の井原西鶴が、浮世草子という大衆小説を書き上げました。「好色一代男」をはじめとする好色物や、町人物では「日本永代蔵」、ほかに武家物として「武家義理物語」などの作品が現在に...

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徳川御三家と御三卿について

七歳でこの世を去ってしまった家継には当然跡継ぎがいませんでした。そして、その時の保険として用意していた御三家のうち、紀州家から将軍を出すことにしましたが、その人が八代将軍・徳川吉宗でした。ちなみに、徳川家一族である尾張家、紀伊(紀州)家、水戸家の三家のことを御三家といいます。しかし吉宗は、御三家だけ...

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享保の改革による足高の制

一般的に実力主義の人材登用法のことを、足高制といいますが、実際のところはどうだったのでしょうか。例をあげると、三千石くらいの旗本がなることができる幕府の役職に、大目付というものがありますが、目立った人がいたら、二千石くらいの人でも、千石を増やして大目付にしてやります。たとえ石高が低くても、能力のある...

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徳川吉宗の増税と新田開発

年貢の取り方を、検見法から定免法に変えたのもこの頃です。検見法とは、その年のお米の収穫量を見て年貢を決めるといった、文字どおり検査して見ること、という意味です。対して定免法は、いつも一定の量の税をかけるという意味で、収穫量は関係ありません。税収が安定しなかったので仕方ないのですが、凶作のときは、納税...

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俸禄制による江戸時代の給料と税金

当時の給料は、お金ではなく、お米で支払われていました。まず、その土地から採れる生産高のことを石高といいます。なにをもとに決めていたかというと、徳川家康が国絵図、郷帳をつくらせましたが、それがもとになりました。耕地面積は、16世紀末から18世紀初頭までの100年間でおよそ二倍になっています。ただ、耕地...

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享保の大飢饉で吉宗改革が頓挫する

徳川吉宗は、講談物や時代劇などでは、すばらしい政治改革をおこなった将軍だといわれていますが、その改革の結果、本当は大変な社会問題が起きていました。吉宗は「米公方」といわれるくらい、お米をたくさん集める将軍として有名でした。彼の改革の基本はお米で、もちろんお米がお金のかわりだったからなのですが、例をあ...

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田沼意次の政治について

結局、お米ばかり集めていた徳川吉宗の改革は失敗に終わります。その子の家重が八代・吉宗のあとを継ぎましたが、病弱だったために、政治に集中することができず、側近が側用人として政務をとることになりました。家重自身は、父親の政策の路線を保とうと思っていました。旗本出身の田沼意次が、側用人から確実に政権を握っ...

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田沼意次が株仲間を作った目的とは?

当時はお米が税金の役割をしていた時代だったので、お米をつくっていない人はどうしていたかというと、地子銭(宅地税)や運上(営業税)が多少かかってくるくらいで、基本的に無税でした。商人というのは、どれくらい儲けているかは外からはわかりません。内々で話し合って取引しているので、確定申告や法人税がなければ、...

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田沼意次の長崎貿易の奨励とインフレの到来

株仲間の公認が田沼の政策のメインですが、他にもいろいろなことをしました。たとえば、幕府の専売で、幕府がみずから商売をしたりもしました。銅、鉄、真鍮から朝鮮人参の販売まで手広くやっていて、すべて儲けは独り占めでした。金、銀の流出を食い止めるために、長崎貿易を縮小していた日本ですが、頭の回転が速い田沼は...

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天明の飢饉と田沼意次の失脚

東北地方で冷害が発生し、1782年に天明の飢饉が起こります。この天災が一年や二年で済めばよかったのですが、次の年の1783年に、浅間山が大噴火をします。その噴煙が大気圏に突入して太陽光を届かなくしてしまい、江戸では夏なのに雹が降るというような異常気象で、お米はますます凶作でした。結局5年間も、天明の...

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松平定信の寛政の改革について

家治のあとを継いだのは、十一代将軍である徳川家斉でした。そのもとで老中の筆頭になったのが、白河藩主だった松平定信です。彼は吉宗の孫にあたりますが、老中になったのは、白河藩(いまの福島県)でのあることがきっかけです。もっとも天明の飢饉で被害を受けたのは東北地方だったにもかかわらず、白河藩では東北の中で...

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寛政の改革の棄捐令と松平定信の失脚

ホームレス対策については、幕府自身はお金をもっていないので、各町内の自治会に任せたわけなのですが、このように民間にやらせるという措置はかなりたくさんあって、その一例が町火消です。町火消は吉宗の享保の改革のときにつくられたのですが、それ以前は幕府がお金を出して対処する定火消でした。この時は旗本が火事に...

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