「天皇記」「国記」の狙いとは?

「天皇記」「国記」の狙いとは?

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 「天皇記」と「国記」という歴史書を聖徳太子と蘇我馬子がこの時代に共同で編纂しました。しかし645年の乙巳の変で焼失したとして現存はしていません。乙巳の変は中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏を滅ぼした事件です。そこから大化の改新へと一連の改革が進んでいきます。6世紀ごろから朝廷を神格化しようという目的で天皇の系譜である「帝紀」や神話である「旧辞」がつくられていました。

 

「天皇記」「国記」の狙いとは?聖徳太子と蘇我馬子による編纂

 

この当時、歴史書がつくられたのは歴史に興味があるとか、歴史が好きだからというわけではなくある理由がありました。それは、自分がいま支配者であることは歴史的に正当であり、当然の結果なのだということを主張するためでした。

 

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聖徳太子と蘇我馬子は「帝紀」や「旧辞」を否定して全く別の独立させた「天皇記」「国記」をつくったのです。政変のさいにこれを焼失させるために中臣鎌足は、「天皇記」「国記」が保管されていた場所にもっとも近い大極殿に最初に火を放ったのでした。

 

大化の改新をおこなうためにまず最初に「天皇記」「国記」を焼いたのはなぜでしょうか。おそらくその内容が改革派にとっては大変都合が悪いこと…つまり朝廷と蘇我氏が連立して政治をおこなうことの正当性が書かれていたからではないでしょうか。

 

 

「日本書記」は、イザナギノミコト・イザナミノミコトの国産み神話です。天皇が日本を支配するのは神武天皇がイザナギノミコト・イザナミノミコトの子孫であり、その子孫が天皇家だからという筋書きが書かれてあります。「日本書記」には「天皇記」「国記」がつくられたとは書かれていますが、その内容については何も書かれていません。その内容が都合の悪いものだったからとも考えられるでしょう。

 

いちがいに天皇中心の政治を執り行おうとした聖徳太子に対して、その邪魔をした蘇我氏というように思われています。しかし、実際にはもっと複雑なものがあったのかも知れません。





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