平安遷都と地方統制について

平安遷都と地方統制について

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道鏡が影響力を持った時代に、九州の果てまで流され、名前まで変えられてしまった和気清麻呂でしたが、返り咲きを果たし再び歴史上に名を上げてきました。この和気清麻呂が平安遷都を強く提案しました。

 

平安遷都と地方統制について

 

藤原種継が長岡京に都を移そうと中心になって活動していましたが、彼が暗殺されてしまったので、みんな怖がってしまって新しい場所に都を移そうとする動きが低下しました。下手に何か発言しようものなら暗殺されるかもしれない状況だったので、朝廷内でも、都がまた平城京に戻るのではないかという空気が強くなりました。

 

そのような不穏な状況に置かれても、旧弊を断ち切るために、和気清麻呂はかたくなに都を移すことを主張したのです。和気氏は元々位の高い貴族ではなかったのですが、道鏡に歯向かった宇佐八幡宮信託事件にしても、平安京遷都にしても、殺されることを臆すことなく行動することによって、有名貴族の一つに名を連ねるようになっていきます。

 

桓武天皇が行った地方統制の強化策として、勘解由使の設置が挙げられます。これは、地方を治めていた国司が不正をして税を盗み取っていたので、その不正を取り締まるための役所です。中央政権が弱まれば、中央から派遣されて地方を治めていた国司が、地方の有力豪族と手を組んで悪事を働くことも目立つようになります。

 

さらに地方の軍団・兵士の設備・改革にも力を入れます。今までの地方の軍団は、挑発されたことによって立ち上がった地元農民によって結成された貧弱なものしかありませんでした。これに変わるものとして健児の制を定めました。それにより郡司や地方の有力豪族の子弟などを軸とした、専門の軍団を創設し、国司の役所の警備をさせるようにしたのです。

 

西暦800年前後は、このようにして、多くの律令体制のたてなおしを試みますが、実際のところ思うような成果をなかなか挙げることができませんでした。





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