国司の徴税請負人としての役割

国司の徴税請負人としての役割

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この頃の政治とは、律令体制のもとでどれだけ税を徴収できるかということが最も重要視されているので、現代のそれとは違います。平安前期に桓武天皇がつくった勘解由使とは、国司が税を不当に自分のものにしているのを取り締まるためのものでした。

 

国司の徴税請負人としての役割

 

この時代はどこの国も同じことですが、政治は一切国民の方に目を向けられることはありません。とにかく、どれだけ効率よく税が徴収できるかだけを重視していて、それ自体が政治なのです。律令体制が日本の徴税システムなわけですが、その中でどの地位に自分が居るかで、それがそのまま実入りにつながっていくので、権力の奪い合いで争いが起こっていくのです。

 

律令体制を立て直そうとして、9世紀前期も10世紀前期も結局うまくいかなかったわけですが、10世紀後半になると、完全に律令体制が崩れ去ってしまいます。それ以降は、国司の役目に変化が起きます。それまでの国司とは地方官で、各地を管轄する役目を任されていました。

 

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それが、地方の統治のことは一切任せるけれども、その代わり一定額の納税を義務化するという方式になりました。つまり、徴税請負人としての国司の役割を強調したわけです。分かりやすく言うと、「あなたのノルマはここで10億円集めることです。朝廷に10億円を納めることができたら、ここで何をしても構いませんよ」ということです。

 

ノルマさえこなせば、例えば国司に就いていても自分はその地に赴かず、別の人間に行かせてもよかったということになります。色々な性格の国司がいて、実際に現地に行かない国司を遙任、代理で行く人間を目代、目代しかいない国衙(国司の役所)を留守所とよびます。もちろん、自分から地方に行く国司もいて、受領とよばれました。

 

ちなみに現地でノルマ以上の税を徴税した場合、余った分は全て自分の取り分になります。例えば10億のところを20億集めれば、あとの10億は自分のものになるということなので、国司はすごく儲かるおいしい仕事でもありました。

 

 

そうなると当然、賄賂で国司にしてもらおうという人間も出てきます。これを成功といいます。また、任期が終わってもお金を使うことで再度就任させてもらい、その地位に就き続ける者もいました。こちらは重任といいます。

 

逆にいうと、平安時代中期は平安前期と違って、税を集める組織がうまく働き出したのです。朝廷としては、ノルマさえ徴税できれば、官人の給料の支払いにも困ることはなかったですし、十分やっていけたのです。こうしてますます政治というものを全くする必要がなくなってきたのです。





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