源頼朝が死んだあとの北条時政の台頭

源頼朝が死んだあとの北条時政の台頭

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鎌倉幕府の初代の将軍である源頼朝が1199年にこの世を去りますが、二代目にその子の頼家が就任します。しかし、頼家がまだ若かったというのもありますが、頼朝自身のカリスマ性がすごく、頼朝でないと言うことを聞かないという人もいました。

 

源頼朝が死んだあとの北条時政の台頭

 

そこで、十三人の有力な御家人たちで意見をまとめ、それによって政策を実行していこうという、十三人の合議制というものがおこなわれるようになりました。今までは頼朝が命令を出して、その下の御家人たちが命令に従うという形でしたが、頼家の下の十三人での合議制となると、当然彼らの中で主導権の奪い合いになります。

 

その中で頭一つ分抜けて力をつけていったのが、頼朝の妻・北条政子の父親である北条時政です。北条政子は、二代将軍の頼家と三代将軍の実朝の母親でもあります。この御家人同士の主導権の奪い合いによって、1200年に梶原景時が殺されてしまいます

 

梶原景時は、源平の争乱で一番初めの戦いである石橋山の戦い(いまの小田原市付近)にて、頼朝の命を救っています。そんなこともあって、いわば梶原景時は、御家人のなかでも最も力を持っていたといっても過言ではなかったのです。

 

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景時が殺された後、比企能員の乱が1203年に起こります。北条時政がなぜ権力を持ったかというと、頼朝と北条政子のあいだに生まれた頼家と実朝のおかげともいえました。比企能員は同じようなことを考えていて、頼家のところに自分の娘を嫁がせていて、一幡と公暁という子どももいました。つまり、比企能員の孫も後の将軍候補だといえるのです。

 

自分の立場が危うくなる前に、北条時政は比企能員をだまし討ちにして、そのあと一幡を殺してしまいます。そして、現将軍の頼家を伊豆の修善寺に閉じ込めて将軍としての仕事をできなくしたあと、三代目として実朝を将軍に立てます。

 

 

これをきっかけに、北条時政は政所別当(政所の長官)=執権に出世し、そのあとも北条家が代々、政所別当を受け継いでいくことになります。その次の年に頼家は修善寺で殺されてしまいます。1204年のことでした。

 

このとき、北条時政は何を思ったか、実朝を廃して後妻の娘を嫁がせていた平賀朝雅、つまり自分から見て娘婿を将軍にしようとしたのですが、失敗してしまい、執権を放棄して出家してしまいました。





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