開拓使官有物払下げ事件とは?

開拓使官有物払下げ事件とは?

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政府に対する批判もそろそろ尽きるころかと思われましたが、ここで大隈重信という人物が出てきます。その頃の大隈重信はいわゆる財務大臣のようなもので、大蔵卿というポストに就いていました。この人が、政府に対する反発心をさらに向上させるようなことをやってしまいます。

 

開拓使官有物払下げ事件とは?

 

そのころの財政状況は、どんな感じだったのでしょうか。とりあえず西南戦争の鎮圧には成功したのですが、明治政府は西郷隆盛を討伐するために多額のお金を使ってしまったのです。使ったといっても、お札をどんどん印刷してしまっただけなので、金や銀などの裏づけになる財産がないままお札をつくってしまった(不換紙幣)ので、ものすごいインフレが起きてしまったのです。

 

それを対処するのが大隈の仕事だったのですが、大隈重信は肥前出身だったため、政府内を動かしたくても、薩長派に反対されてしまうと何もできなくなってしまうのです。それだけでなく、彼は国会の早期開設を求めていて、伊藤博文らとは仲が悪かったのです。

 

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そんなおり、北海道開拓使長官の黒田清隆が、1881年に開拓使官有物払下げ事件というものを起こしてしまいます。薩摩の人間だった黒田ですが、そのころ一千五百万円から二千万円もかけて開発したはずの北海道の土地や、船舶、鉱山などの開発資本を、およそ三十九万円ぽっちで、しかも三十年の分割払いで、関西貿易社に払い下げようとしたのです。相手は黒田の同郷の政商・五代友厚らが経営する会社でした。

 

おそらくその代償として、黒田は政商からものすごい額の賄賂をもらうのでしょう。さんざん苦労して倹約して財政難をなんとかしようとしていた大隈重信にしてみれば、たまったものじゃありません。ただでさえ、自分の意見はなかなか通らないのに、黒田は薩摩だったため、簡単にそんなことができてしまうのです。

 

大隈が反発するのは当たり前ですが、大隈の周りの人物が、この事件を外に漏らしてしまったのです。これは政府攻撃をするためのとても良いネタになったので、民権運動がふたたび盛り上がります。そして、払下げも中止になりました。

 

 

そして政府は、1881年に国会開設の勅諭を出します。10年後に国会をつくることを、民権運動派に約束させられるわけです。





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